こんばんは。このたび新ブログサイトを公開しましたが、新ブログのデザイン・制作・公開等の作業は全て、先週からお世話になっているパラグアイ共和国の首都アスンシオンの友人宅の一室で行いました。現在執筆中の本記事も同じく友人宅で書いています。友人のカルロスは7人兄弟で、現在は彼と両親が住んでいるのみなのですが、他の兄弟達も息子・娘を連れて引っ切りなしに実家を訪ねてくるので、常に子供の声が響くとても賑やかな環境です。家の周りには木がたくさん生えていて、地面は赤土、騒音もなくとても穏やかです。特に家の目の前に在る大きなユーカリの木々は、リラックス作用のある香りをふんだんに届けてくれます。僕も子供達と一緒に遊んだり、犬と戯れたり、木々の香りに神経を休めてもらったりしながら、豊かな休息の合間を縫ってこのブログをスタートさせました。
さて、そのような環境の中で今回公開した新ブログですが、もし僕がこのブログの制作を日本国内で行っていたら、あるいはまた別の何処かで行っていたら、現在公開されているものとは若干異なるデザイン・仕様になっていたことと思います。もちろん大枠は変わりませんが、掲載情報の優先順位だとか言葉の選択だとかについては、明らかに影響を受けていたはずです。
例えば僕の場合、日本にいて、特に不特定多数を対象とした言語発信を行う場合、より自己検閲が働きやすくなります。書いている途中で「想定される批判・反論」が次々と浮かんでは、その全てに対して思考を先回りさせて、いやに懇切丁寧な表現で事前に反論の封じ込め(あるいは自己フォロー)をしにいくような、そういう文体になっていきます。例えば白について言いたいことがたくさんあって書き始めたとしても、「赤や黒についても考えてることを一応ちゃんと示してフォローしておかないと後で文句言われそうだ」とか、そういうことです。これを繰り返していくと、ある種の「バランス」は取れているけれど尖ったところがなく、それゆえに特別に見るべきものもない「まんまる」な文章が出来上がってきます。この「まんまる」の「まんまる度」は「無難さ」と同義語です。特に現代はインターネット上での表現において、そこかしこから「炎上」にまつわるニュースが飛び込んできます。何かを発信した時に返ってくる反応が本来の意味での建設的な批評・批判(critic)ならば、ポジティブなものでもネガティブなものでも歓迎すべきです。しかし少なくとも現在の日本語の言語空間を見ている限り、実際にはとても「批評」とも「批判」とも呼べないような誹謗中傷、重箱の隅をつつくような揚げ足取りや、「正論」を盾にした個人攻撃など、むしろ破壊的なリアクションも随分目立ちます。その窮屈な表現環境は各個人・各表現者の恐怖心を喚起し、結果として相互監視に基づく厳しい自己検閲が各人において内在化されていきます。そして、僕もまたその言語環境の影響を受けている人間の一人なのです。「とにかく俺はまず何よりも白について言いたいことがあるんじゃ!実は赤や黒のことだってちゃんとそれなりに考えてるけど、今はどうでもいいんじゃ!白について言いたいんじゃ!言わせろや!」という風には、なかなか踏ん切れないのです。つまり僕にとって誠に残念な事実ですが、いわゆる「世間の目」という名の「匿名の権威」が、僕自身においても内在化されているのです。
それともうひとつ日本語での言語発信において特に苦労する理由として、使用する文体が話し相手によって大きく左右されるという言語的特性が挙げられます。相手と自分との社会的関係性を前提にした言語運用が日本語を使用する際の前提になってくるので、例えばブログのような「個人→不特定多数」という状況での言語発信においては、そのあたりの言葉の選択に非常に気を遣います。僕自身まだこの問題を完全に克服できたわけではありませんが、少なくとも今、こうして自分なりに定まった文体で物を書けているのは、既に存在している特定の読者の人達のことをリアリティをもってイメージできているからです。寺子屋の生徒や親御さん、あるいは身の周りの友人達、お世話になっている人達。飽き性で継続力に乏しい僕に対して「読んでるのでちゃんと更新してくださいね」とハッパを掛けてくださる貴重な方々の存在がなかったら、僕は文字通りキーボードを前にして「言葉を失う」ことになったと思います。本当に日本語というのは難しいです。
と、まあ上に挙げたような面倒な日本語的事情があったため、個人的に発信したいことや考えていることは常に山ほどあったにもかかわらず、文体や言語選択等の表現方法を決めきれず困っていました。ポツポツと発信はしてみるものの、「何かまだしっくりこないな」みたいな感覚がずっと付きまとっていました。
そんな中でのパラグアイです。どういうわけか僕は遂にここで、自分にとって理想的な「表現の自由の感覚」を手に入れました。もちろんこれは、タカサカモトという具体的・個別的な場合におけるひとつの解決の在り方に過ぎず、間違っても「皆パラグアイに来たら解決するよ」などとは思っていません。僕のこれまで生きてきた30年という文脈と、持って生まれた性格や後天的に備わった感性や、周囲の環境との個人的相性など、様々な要因が絡んでのことです。例えば「都会から田舎へ来て自由になった」人や、「日本からUSAに行って自由になった」という人がいます。僕も実際に今までたくさん出会いました。他にもフィリピンでしっくり来た人やら、逆に都会で自由になれた人やら、僕が直接知っているだけでも色んな人がいて、色んな「自由へのきっかけ」や「解放への扉」がありました。で、僕の場合について言うと、おそらく「表現の自由の感覚」を得るまでのロックが知らない間に何重にも固く設定されてしまっていたようなところがあって、「鳥取→東京→東京都内の英語圏→メキシコ→東京→鳥取→ブラジル→鳥取→ブラジル→パラグアイ」という、多少複雑な手続きが必要だったということなのだと思います。それにしても何でパラグアイなんだろう、と自分でも思います。遠いわ、と(もちろんこの「遠さ」こそ鍵のひとつでした)。
ちなみに現在の僕にとっての「パラグアイ」とは、日本で生まれ育った自分を基準にした物差しにおける「世界の最果ての地」です。少なくとも僕の感覚・感性はそのように認識しています。これに対して先々週まで滞在していた「ブラジル」は「世界のちょうど反対側の場所」という認識です。これは似ているけど微妙に違います。もともとは「反対側」のブラジルが、同時に最遠の地だと何となく認識していたのですが、この「海からも辿り着けない」パラグアイの存在は、次第に「最遠の地の更に最果て」のようなイメージで僕の感性に訴えかけてくるようになりました。で、ご縁に恵まれていざ来てみると、この「日本からはどうやっても届かないような感じ」が、僕を遂に自由にしてくれました。何かこうやって書くと完全に「日本脱出マン」みたいな感じですね。いや、でもそうです、僕はずっと「日本脱出」を願っていたのです。物理的な意味でなく、心理的な意味で。そして今回、遂に成功したのです。ただ、これは日本を完全に捨て去りたくて離れたという意味ではもちろんなくて、今後も「日本人」として「日本」という環境をベースにしていくことを前提とした上で、そこで「自由に生きていく自由」を得るために必然的な過程だったということです。日本をベースにした日本人として、軽やかに生きていくためにはどうしてもこの旅程は必要だったのです。
そういうわけで、僕は今、日本から見たら地球の反対側の、更に最果ての国パラグアイで(繰り返しますが、僕にとっての「物語的な意味」を前提とした表現です)、長い間緊張しているのが当たり前になっていた全身の神経が日々穏やかになっていくのを感じながら、ポルトガル語で「僕らには僕らのテンポがある」って書いてあるTシャツを着て(これは狙ってではなく完全にたまたま。今気付いたからついでに書いた)、昼下がりの緩やかな時の流れの中で、ソファに持たれてこの文章を書いています。
今回は「環境が表現に及ぼす影響」というテーマで、パラグアイ共和国首都アスンシオンからお届けしました。
こちらは現在、午後3時。パラグアイ人はおやつをよく食べます。
¡Hasta luego! (「アスタ・ルエゴ!」:スペイン語で「またね!」)