「報道」と「広報」

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昨日インターネットで見つけてたまたま知った、ジョージ・オーウェルのこの言葉。思わずハッとさせられたのでメモ代わりにブログ記事として残しておきます。ちなみに上の画像の和文は自分で訳したものです。「報道」と「広報」という2つの用語がありますが、元の英語ではそれぞれ「Journalism(ジャーナリズム)」「Public Relations(PR)」となっています。それにしても何だか凄く有名な言葉の匂いがしますが、僕は恥ずかしながら昨日初めて知りました。またジョージ・オーウェルが小説家である以前にジャーナリストであったことも同時に初めて知りました。文学部出身ですが、すんません。彼のことは『1984年』の著者ということだけ知っていたのですが、実はその『1984年』も学生時代に読もうと思って買ったのですが読み始めてすぐに挫折して、そのまま本棚の肥やしになって現在に至ります。文学部出身ですが、すんません。ちなみに『1984年』は理想郷の真逆、つまり悪夢的な社会の様子を描く「ディストピア小説」と呼ばれるジャンルの文学史的代表作なのですが、僕はこのジャンルではオルダス・ハクスリーという作家の『すばらしい新世界』の方を読んだことがあって、こちらはもう衝撃を受けながら夢中になって最後まで読みました。けっこう考え方に影響を受けた気もします。そういえば元々この本を勧めてくれたのは大学の頃に仲良くしていたシンガポールの友達だったのですが、彼女は歌を歌っていてとても上手なので、一曲紹介します。名前をオリビアと言います。

もう何年も前にシンガポールに帰っていて、現在は日本での活動はありませんが、歌唱力はワールドクラスです。残念ながら日本では大ブレイクには至りませんでしたが、母国シンガポールの他、台湾、香港等のアジア諸地域で人気を博しているようで、よかったよかった。気に入った方は是非他の曲も探して聴いてみてください。

話が三段階くらい逸れました。元に戻します。

「報道」すなわち「ジャーナリズム」と「広報」すなわち「PR」。この2つの関係性について考えてみることは、情報社会、メディア社会を市民として生きる我々全員にとって、すごくすごく大事なことだと思うのです。おそらくこれに異論のある人はいない筈です。

上のオーウェルの警句を改めてまとめると、つまりこういうことです。

報道:ジャーナリズム:誰かが報じてほしくないことを報じるもの

広報:PR:誰かが報じてほしいことをその望み通りに報じるもの

こうして簡潔に書くと「ふーん、当たり前じゃないか」という気になってくるものですが、そこで一気に分かった気になってしまわずに、もう一歩踏み込んで考えることが大切です。

まず僕自身がこの警句に触れて感じたことを簡潔に言うと、

自分が発信している(あるいは受け取っている)メディア表現が「報道」と「広報」のどちら側に属するものであるか、あるいはそれぞれがどれくらいの割合で混ざったものであるか、常に意識しとかんといけん

ということに尽きます。僕の主観なので一部母語の鳥取弁になりました。

万人にとって都合の良い情報というのもありますが、大抵の場合、情報というのは誰かにとっては好都合なものである一方、別の誰かにとっては「不都合な真実」であったりするものです。オーウェルが訴えているのは、まだ世に出ていない重大なる「不都合な真実」を暴いて白日の下に曝していくことこそがジャーナリズムの務めであり、それ以外は「不都合な真実」を隠す者の側に加担する行為に他ならない、ということでしょう。己の発信する情報が誰を利するためのものであるのか常に自覚せよ、ということですね。

ただ、こうやって書くと「報道=是」「広報=非」あるいは「報道=真」「広報=偽」というような単純な二項対立の図式に収斂してしまいそうですが、もちろんそんなに短絡的に考えるべきではありません。僕がこの警句を読んで考えさせられたのは、「広報」であり同時に「報道」であるような情報発信の在り方についてです。あるいは別の言い方をすれば、情報の非対称性(偏り)を意識した発信の在り方についてです。

例えば僕は今後このブログで、僕が南米滞在中に訪れた幾つかの学校についての記事を順次更新していく予定なのですが、その中にはサッカー選手のネイマールがブラジルの地元に作った学校の訪問記が含まれます。例えばネイマールについて書くならば、既にメディアを賑わせている移籍金に関する疑惑やら、先日のコパアメリカにおいてカメラが届かない所で主審に吐いたとされる暴言についてやら、そういった話題について書くのが「ジャーナリズム」っぽい情報発信ということになると思います。逆にネイマールの作った学校について、特にポジティブな面を強調した情報発信を行うことは、誰よりまずネイマール側にとってプラスなことであり、そういう意味では限りなく「広報」に近い情報発信ということになります。考えようによっては「本来『報道』すべき『不都合な真実』に目を瞑って忠実なる『広報』屋と化している」という批判も可能です(ひねくれ過ぎかもしれませんが、そういう考え方は実際に可能です)。

しかし、更に視点をずらすと、これも微妙に状況が変わってきます。例えばこのネイマールの学校プロジェクトは実際の活動開始こそ今年の4月ですが、プロジェクト自体は2013年初頭から始動していたもので、ブラジルでは既にニュースになっていたものでした。学校の建設プロセスも公開されていましたし、ブラジル国内の雑誌ではこの教育プロジェクトについて突っ込んで話を聞いたインタビュー記事も2年前の時点で出ていました。しかし例えば日本国内におけるネイマール関係の競技面以外での報道といえば、髪型やらガールフレンドのことやらが大半で、「陽気でプレイボーイで、かつオシャレを気にする現代っ子のブラジル産スター選手」という元々あるステレオタイプに沿ったものが殆どでした。僕は既存メディアのこうした発信の姿勢は「視聴者、読者は結局こういうものを出しておけば喜ぶだろう」という、根っこのところで市民のメディアリテラシーを馬鹿にした態度だと感じて憤っている一人です。(しかし悲しい哉、現実には受け取る側がこうしたメディアの思惑通りの反応を示しまくっていることも事実の一面と言わざるを得ず、個人的にはとても複雑な気持ちです。この現状を少しずつでも変えるべく、僕の寺子屋では特に高校生・大学生年代に対してメディアリテラシー教育を徹底しています。)

こうした状況下においては、逆に前述の学校プロジェクトのようなネイマールの「知られざる一面」を伝えていくことは、例えば多くの市民にとって有益となりうる事実(若き社会的成功者のロールモデルとして参考になる、等)が明らかに存在していながらそれらを伝えなかった既存メディアの仕事の価値・質を問うということにも繋がっていくわけで、それは大袈裟に言えば、既存メディアの職業的怠慢を指摘する力を持った「不都合な真実」ということにもなってきます。

つまりそもそも情報発信というのは、誰かにとっては「広報」であると同時に別の誰かにとっては「報道」となるような、そうした性格のものだということです。ある情報が「報道的」か「広報的」かという問いに対する答えは、視点をずらすだけで簡単にスイッチします。だからこそ情報発信においては、「これは『報道』なのか『広報』なのか常に意識しながら発信しないといけないと思いました」みたいな子供の日記の最後の一文みたいなまとめ方で思考停止に陥ってしまうのでなく(決して「子供」を馬鹿にしているわけではありません)、「これはどの視座だと『報道』になって、どの視座だと『広報』になって、どういったバランスと意味を踏まえた上で、発信されるべき情報と判断できるのか」を考えるようにしたいと思った次第です。様々な利害や事実関係が複雑に絡み合った現代社会の中でそれらを完全に自覚するということは不可能に近いかもしれませんが、あくまで「しせい」としてはそうした気概と冷静さを持ち合わせていたい、ということです。

ま、そんな感じです。勉強になりました。オーウェルさんありがとう。あとオリビアの曲、皆さん是非聴いてください。そして周りのご友人にも「広報」か「報道」かどっちか分からんけど、何でもいいので積極的に紹介してやってください。