僕が学校でも塾でもなく寺子屋を、他でもない鳥取に作った理由2

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同タイトルの第1回からの続きです。1回で書ききれないことが分かった時点で、2回で書き終えることも既に諦めています。こうなったら筆の向くまま、とことん書き切るまで続けようと思います。

さて、前回は僕が高校生の頃から学校や学習塾に対して抱いていた問題意識について説明をしました。すなわち、国内最少人口県で多くの問題を抱える鳥取の教育現場が学業成績向上と受験の成果ばかり追いかけていて、肝心の「地域の未来を担う人間」を育てる教育を全然やっていないことに対する問題意識です。せっかくなので、この問題についてもう少し詳しく書くことにします。少し話は遡りますが、僕の教育に対する関心の原点になった体験についてご説明します。

僕が通っていたのは鳥取県内有数の「名門」公立進学校で、実は首席で入学しているのですが、学校の指導方針には入学当初から衝撃の連続で感覚的に理解できないことばかりでした。学校の教員達が、本当に口を開けば受験、志望校、偏差値の話ばかりするのです。「偏差値主義」だとか「受験至上主義」だとか、中学生の頃に本で読んだことはありましたが、まさか家から自転車で15分の距離にその典型のような学校が存在しているとは思いもせず、最初は本気で何かのドッキリかと思いました。例えばまず学年集会で教員が大事な話として生徒に言い聞かせる内容。曰く「大学入試本番の時点で受験生が覚えていなければならない英単語数は約◯◯語(数字は忘れた)で、それを3年計画で割って考えたら、1年生の夏休みまでの時点で大体△△語覚えてないといけません」と。いや、ひとつの考え方としては理解できるのですが、俺らの貴重な10代の3年間の在り方を受験と英単語だけで総括して語るなよ!と驚き呆れたあの日の気持ちは今もはっきり覚えています。この話はその後も学年集会の度に何度か聞かされました。更に衝撃だったのは、ふと周囲を見回すと、多少不満を持ってはいるものの結局は「そういうもんだろ仕方ない」と言わんばかりの表情で結局追従する同級生が少なからずいたことです。大丈夫かこいつら、10代だぞ!お前らの青春時代を、若き魂をそんな簡単に売り渡してしまっていいのか!と衝撃を通り越して薄気味悪く感じていたことも、今でも覚えています。これは面白可笑しく書きたくて誇張しているのではなくて、本当にそういう状況があって、今ここに書いている通りにそのまま感じていたんです。とはいえ、かく言う僕も「この世界はおかしい」と思っていても、結局「それ以外の世界」を知っているわけではなく、根本的な抵抗や変革のための行動が起こせたわけでもありません。つまり僕自身も、そんな偉そうに周りの文句ばっか言えたような奴では決してなかったことを付け加えておきます。その後何年も経ってから友達になった鳥取移住者の大阪人成瀬望くんのように「高校さぼって旅に出た」わけでもありませんし(詳しくはリンク先を参照)。あ、旅には出ませんでしたけど、詩を書きました。高校1年生の夏の、ある生物の授業中。僕は窓際の席で外の緑を眺め、空を眺め、それから教室内の同級生達を眺めました。全員だったとは言いませんが、死んだような目をしてボーッと前方の黒板の内容をノートに写している友人達。意味の分からない世界に入り込んでしまったもんだと思って、その時自由帳に書いたのがこんな詩でした。

十六年間生きてきた、パワーあるべきアリさん達が、

疲れた顔して走ってく

いつか誰かが付けてった、足跡頼りに、黙々と

いつか誰かが作ってた、蜃気楼のゴール目指して

まあ、浅いし、甘いし、何より青いですが、これが当時の素直な実感だったことは隠しようのない事実です。あまり昔の話を長くするのは気が進みませんが、僕がいたクラスの様子についてもう少しだけ話します。2年次からの地理歴史の科目選択にあたっては「地理を選べ」という号令がかかりました。曰く「日本史や世界史と比べてセンター試験で点を取りやすいから」と。ふざけんじゃねえと思いましたが、周りを見たらクラスメイトの大半が素直に従っていました。僕自身は元々歴史が好きで早く勉強したいと思っていたので迷わず歴史を選んだのですが、個人面談で担任から何度も「地理じゃなくていいのか」と確認されました。もはやシュールな状況でしたが「歴史が好きなので」「点も取れます大丈夫です」という台詞を淡々と繰り返してそのまま歴史を選択しました。そういえばクラスメイトの何人かにまで同じ調子で「地理じゃなくていいのか」と聞かれました。こうなるとほとんど恐怖です。

また、いわゆる理系に進む同級生達には物理と生物の選択にあたって「物理を選べ」との号令がかかっていました。曰く「鳥取大学医学部が物理指定のため、そこを受験する可能性を残しておくために物理を選べ」と。僕自身は理科の知識とセンスが小学生並みなので知ったようなことは何も言えませんが、「医者になるなら物理より生物勉強したほうがいいんじゃないのか」とまず素朴に思いました。それと学校が「鳥取大学医学部」にこだわるのが「地域を支える医師を育てたい」という想いからなら褒められたものなのですが、どうやらそういう感じではなく「医学部合格者数」を一定数確保するための作戦という匂いしか伝わってきませんでした。で、これまた素直に従う生徒が少なくないのです。

(※級友達の名誉のために付け加えておくと、いったん授業や教室を離れると本当に面白い奴ばかりの楽しいクラスで、そもそも僕はこのクラスが大好きでした。僕は2年次から別のコースに進んで彼らとは別のクラスに進んだのですが、3年間つるんでいたのはこの1年次の級友達でしたし、高校卒業後もこのクラスの集まりにちょくちょく顔を出していました。ただ、だからこそ、そんな面白いやつらの中にも授業や受験、あるいは対学校(=対権威)となると急に大人しく従順になる人間が少なくなかったのは謎でしたし、正直に言って不満でもありました。これはもう完全に価値観や考え方の問題なのでどちらが正しいとかいう話ではないですが。)

ともかく、僕があの頃生きていたのはそういう世界でした。そして僕自身も、強烈な違和感と問題意識を持っていた一方で、知らず知らずその狭い世界の価値観に確実に染まっていた部分もあり、という感じでした。実際、大量の課題や予習に追われながら、何とか誤魔化し誤魔化しそれらを消化して過ごすような生活を送っていたことも事実です。また、明らかに才能があった言語(日本語・英語)の力をあの頃もっとストイックに伸ばしておかなかったことは実に愚かだったと今でも思います。とはいえ、自分を取り巻く環境を支配する価値観を切り崩せるほどの強さも自信も意志も行動力も、この時の僕にはまだありませんでした。将来に対して絶対的なビジョンも持てていない田舎の少年だった僕には、どちらにしてもまず「人と情報の集まる都会に出て、そこで数年過ごして自分の方向性を見極める」というのが高校1年の時点で思いつける精一杯でした。修学旅行で中学3年の時に訪れた東京の街は空気も汚いし人も多いしで全く好きになれませんでしたが、それでも感受性豊かな若い時代の数年くらいは、我慢してそこで色々なものを吸収すべきだと考えたのです。地方都市のサラリーマン家庭の長子らしく国公立大の中から進学先を探し、東京の国公立大学で一番学部が多くて集まる人間の種類が多そうな大学を探したら残ったのが東京大学でした(それに最初に気付いた時は最難関だったので「うわー」と思いましたが、運良く入学できました。受験直前期は校風が魅力的な国際基督教大学とかなり迷いましたが、最終的に国立の東大を選びました)。一時期海外への進学も考えたことがありましたが現実的な想像はできませんでしたし、まあ、自分なりに問題意識や志を持ちながら頑張って東京さ出るというところで田舎っぺなりの精一杯でした。

というわけで、ここで話を一気に2012年に戻します。僕は意外にも8年在籍することになった大学を卒業して(同時に結婚もして)遂に東京に別れを告げ、生活の拠点を再び完全に鳥取に移します。翌2013年、3ヶ月のブラジル滞在の後で「寺子屋」を立ち上げることになるのです。簡単に言ってしまうと、結局僕が開いた寺子屋というのは「あの頃の高校生だった僕が、身近に在って欲しかったもの」だったのだと思います。そのために今回は高校時代の話を書いたつもりなのですが、「現在の僕があの頃の僕と出会ったら用意してやりたかった場所」というニュアンスと想いがこれで伝われば嬉しいです。例えば、学ぶという行為には、何かもっと本質的な意味と目的があるはずだという疑問。英語以外の外国語にも挑戦できる機会。どんな映画や本と出会えばよいか。なぜ歴史を学ぶのか。数学はどういう形で実生活に応用可能なのか。この世界にどんな問題があって、どんな人物の登場が待ち望まれているのか。今を生きる大人達は今学んでいる高校生達にどんな期待をしているのか。そういったことに応えられるだけの力と器を持った場所です。それはもはや、既存の「学校」や「塾」という言葉が含むイメージからは完全に逸脱した所に存在する場所に違いありません。となると当然「学校」や「塾」という名で呼べるものでもありません。つまりその場所の名前として、まだ現代の垢が付ききっていない「寺子屋」という名前を借りてきたということになります。それはふっとやって来た言葉でした。この「寺子屋」という呼称についても思いがけず実に面白い「現象」が観察されたので、それについても稿を改めてしっかり書こうと思います。

第2回はここまでです。お付き合いありがとうございました。