遠い海の向こう側、そして地球の反対側でもある南米の地から戻ってきて2週間が過ぎました。向こうにいた実感は日に日に薄れていく一方で、逆に日本とラテンアメリカがいかに別世界であるのかを実感する日々です。握手とキスと抱擁の挨拶を交わしながら、声も身振りも大きく、スペイン語・ポルトガル語のダイレクトなコミュニケーションの世界で生活する自分が確かに存在した一方で、現在ここにいるのは、挨拶はお辞儀、言葉のコミュニケーションはなるべく丁寧に誤解を避ける配慮の上で成立する、日本語の世界を生きる自分です。二つの世界に生きる自分は同じ人間でありながらその姿はきっと大きく異なっている筈で、まるで自分自身がぱっくり引き裂かれたような感覚、あるいは自分の大切な何かを遠くに置き忘れてきたような感覚さえ感じています。ここまで異なると、それぞれの世界の構成要素を出来る限り詳細に分解・観察して細かく比較するような形で、この圧倒的な差異が一体どこから来るのかを徹底的に見極めたくなってきます。ちなみに英語の自分と日本語の自分との間、英語世界と日本語世界との間には、ここまで大きな差異は感じません。これは少なくとも僕が生まれ育ったこの時代の日本という国が事実上USAの属州のような状況にあり、社会の至る所で「英語圏化」の道を突き進んでいることと関係があるかもしれません(だから良いとか悪いとかいう議論はここではしません)。となるとやはり、スペイン語・ポルトガル語世界のラテンアメリカというのは、殆どの日本人にとってまだまだ「遥かなる異郷」なのかもしれません。
2010年9月、約1年間のメキシコ生活を一旦終えて帰国した時、僕は一種の「失語感」のようなものを経験しました。誰かにメキシコでの経験や、帰国して感じる両国の差異について聞かれる度に、自分の感じている内容を適切に説明する言葉や表現が全く見つからないという事態に直面したのです。イメージとして浮かんでくる記憶や、肌感覚として焼きついている記憶が、それらを目の前の相手に伝えてくれと訴えかけてくる確かな感覚はあったのですが、どうにも言葉にならないのです。自分と相手の間に架ける橋のイメージが浮かばず、一体どんな材料でどのような橋を作ればよいかも分からず、掴めないものを手を伸ばして掴もうとするような無力感を何度味わったことかしれません。そしてあれから5年経った現在、再びあの時のような「掴みきれなさ」と格闘しています。
30年に1度どこかの町の住民が一斉に音もなく忽然と「消滅」する世界を描いた『失われた町』という小説があります。消滅する町の住民たちは、その暫く前から自らの未来を理解するのですが、「自分達が失われる」という事実を町の外に訴えようしてもできません。消滅に抗おうとする意志そのものを「町」が妨げ、取り込み、奪ってしまうからです。結果、町の住民は消滅が実際に発生するその日まで何の手も打てないどころか、むしろだんだんと消滅を受け入れる方向に気持ちも態度も馴化させられていきます。それゆえ当然、町の外の人間が住民の消滅を防ぐ手立てもまず存在しないわけです。この「消滅」という現象と様々な意味で闘う様々な人々の様子を描いた物語のことを、僕は今この文章を書きながら思い出しました。
もちろん僕自身が消滅するわけではありません。ただ、ラテンアメリカという世界に確実に存在した、今この文章を書いている僕とは明らかに何か違う個性を持った一種「もう一人の自分」とも言うべき人間が、このままこの国に暮らしていたら確実に「消滅」に向かうということは明らかな事実として感知されるのです。こう書くと「じゃあもうラテンアメリカに移住してずっとそっちにいればいい」という考えが浮かんでこないでもないですが、そう単純な問題でもないのです。僕は日本という国にも社会にも、日本語という言語にも並々ならぬ愛着を持った人間の一人ですし、向こうにずっと居たら居たで、今度は「日本という場所に残してきた自分」の居場所を切実に求めるだろうことも容易に想像ができます(まあ、その度に一時帰国すればいいとも言えますが)。
どちらにしても今の僕にとって、「ラテンアメリカという経験(世界)を日本語で形にして残す(そして日本語話者に日本語で伝える)」というのが、自分自身の魂の生き死にに関わるような切実な問題らしいということを、この度の帰国で何時になく強く自覚しています。ある意味このブログはそのためにあるとも言えるのですが、実際は未だに手探りを続けている状態です。例えば今回の旅だけとってみても、伝えたいこと、書きたいことは山ほどあります。各地でのホームステイのこと、ネイマールが作った学校のこと、パラグアイに存在する「ニホンガッコウ」という不思議な名前の学校のこと、「日本人の未来」を想像させてくれる日系ブラジル人の友人達のことなど、枚挙に暇がありません。そのひとつひとつの記憶が、少なくとも僕個人にとってはあまりに濃密であり、同時に今となってはあまりに遠くもあり、未だにうまく言葉に移し替えられずにいるのです。
だからこそ、自分の問題を認識し、また描き出して残したい経験や記憶との距離を掴むため、それらに対して外堀を埋めていくための思考をこうして文章を書きながら続けているのかもしれません。それは記憶の核という獲物に向かって、ゆっくりと距離を縮めていっているような感覚です。異なる世界に戻ってくると、まるで「消滅」に向かう町の住民のように、もうひとつの世界の記憶を描き出す意志が挫けてしまうような気持ちになることが何度もあります。でも、これだけは辞めてしまうわけにいかない、という不思議な確信めいた信念のようなものがあるのです。
僕にとってラテンアメリカについて書くことは、ラテンアメリカという世界を日本に近付けることであり、僕が知る「ラテンアメリカ」という時空間を出入り可能な形で日本語の世界に出現させることです。居場所を失ったもうひとつの魂を救うためにも、自分の人生の意味という問いにひとつの答えを出すためにも、僕はこの宿題と向き合うしかないようです。