コミュニケーションについて書きます。現在の日本社会において散見されるコミュニケーション態度について、僕の実感を元に下記の三段階にまとめてみました。
- 偏執狂タイプ
- バランス病タイプ
- 責任ある個人
以下、各カテゴリーについて順に解説します。
1. 偏執狂タイプ
誰がどう見ても偏執的で妄信的なのに、その自覚が全くないタイプのコミュニケーション態度です。自分が信じている世界観・価値観を「絶対的正義」として掲げているため、世界観の異なる他者を許容することができず、攻撃さえします。主義主張を異にする偏執狂同士で攻撃し合うケースが多いですが、これはおそらく同族嫌悪の類でしょう。このタイプとはコミュニケーションが成立しないので、僕は一切付き合いたくないし、関わることもないように気をつけています。しかし後述する「責任ある個人」もまた、この偏執狂タイプにとって無関心ではいられない存在なので、僕もその生き方を目指す以上、偏執狂に絡まれるリスクは避けられないと考えています。嫌だけど仕方ないですね。ついでにもうひとつ嫌なことを言うと、これも後述しますが、程度の差はあれ全ての人間は偏執狂的性格の種を抱えているというのが僕の人間観です。態度として表出までしていなくても、人って常に何かしらの妄念や排他的な思い込みに囚われてたりするものです。嬉しい事実ではないですが、自己理解も他者理解もそこから出発するしかないと思っています。
2. バランス病タイプ
これは僕が知る限り、日本で育った日本語話者の日本人に突出して多く見られるカテゴリーです。意見や主張を行う際に「偏執的に見えない」ために異常に気を遣う強迫観念的な振る舞いに取り憑かれたタイプです。僕の実感では「偏執狂」カテゴリーを抜けた日本人の大半がこのカテゴリーに留まっています。なので、僕の目には強迫観念的に見えますが、日本ではむしろ「普通」と思われていることの方が多いかもしれません。具体的に言うと、このタイプは何につけ「言い切る」ということをしません。相手の反応を伺いながら話し、語尾を和らげて更に相手の反応を伺い、そこで同意を得ると一気に勢いづいて断定に踏み切ります。あるいは相手のネガティブな反応を確認すると、あっさりと自分の意見を妥協したり引っ込めて「調和」に駆け込みます。それだけでなく「自分の主張とは別の考え方もあることを自分はちゃんと認識しており、それはそれで敬意を持って受け入れている」ことのアピールにも余念がありません。じゃないと「偏っている」と思われるからです。偏っていること以上に、偏っていると思われることが問題なのです。要は「仲間外れ」になりたくないのです。また、偏執狂タイプが名実ともに「絶対主義者」であることと比べると、このタイプは逆に徹底した相対主義者に見えます。しかしそれは見かけの話で、実際には「相対主義者の皮を被った、抑圧された個人」であることが多いです。よって実際には多様性や他者との差異を受け入れるだけの器を備えていないため、「尖った意見」を口にする「責任ある個人」を前にすると激しく動揺します。その動揺が「尊敬」や「憧れ」に転じて前向きに作用した場合、その人のコミュニケーションは「責任ある個人」型への変化に向かいます。一方、動揺が「不安」や「嫉妬」に転じて後ろ向きに作用した場合、自分を変化させるのでなく相手をバランス病ウイルスに感染させて抑圧の中に引き込もうとします。残念ながら日本の社会環境で育った人間の殆どはバランス病に感染します。本当に嫌なんですが、僕も患者の一人です。何らかの意味で「日本」という環境から離れるとウイルスが働かなくなって快方(解放)に向かいますが、「日本」に身を置くとウイルスが餌を得て増殖し、再び感染度が高まります。このウイルスが最初に奪うのは「表現の自由」ですが、やがて感染者の生命力そのものを蝕んでいくので、非常に危険です。僕がこのブログを遠い地球の反対側の内陸国で作って最初の幾つかの記事を書いたのは、自分が帰国後に再感染することを見越して抗体を打っておくためでした。その後帰国して案の定ウイルスが活発化しているので、頑張って対抗しているところです。
3. 責任ある個人
このカテゴリーこそ、円滑で生産的で、何より自由なコミュニケーションのために人が目指すべきところです。このタイプの人の特徴を一言で言えば「議論ができる」ということです。つまり多様性や意見の相違などは自明の前提で、その上で自らの責任で意見を明確に表明します。それに対する反応はあくまで次の段階で起こることだとして、「まず顔色を伺う」「まず空気を読む」ということはしません。まず自らの立ち位置を表明し、その上で反応を待ったり、あるいは待たずに行動を開始します。反応に対しても自分の責任(responsibility)で対応します(対応しないという対応も含む)。また「議論ができる」というのは「応答」(response)ができるということでもあります。「応答」するためにはまず相手という他者の声を聴いて、理解できていなければいけません。つまり相手の話を落ち着いて聞けるということです。「落ち着いて」というのがポイントで、聞いている途中で相手の話の「偏り」が気になって口を挟んで「フォローを入れる」とか「バランスを取りに行く」みたいなことをしません。落ち着いて話を聴いて落ち着いて考えられるので、相手の意見と自分の意見を冷静に比較して取捨選択します。変えるべきところを変え、貫くべきところ貫くということにおいても、自分の責任で判断して実行します。もちろんそれが「正解」になるとは限りませんが、「失敗」のリスクと責任も自分のものとして捉えているので、構いません。そもそも「正解」なんてないからこそ自分の責任と判断で決定し、行動するのです。
以上三段階です。これは必ずしもどれか一つののタイプに100%収まるという種類のものではありません。例えば偏執狂タイプについて言えば、既に触れたように「人間は程度の差はあれ誰もが偏執狂的性格を抱えている」というのが僕の基本的な人間観です。「どれくらい偏執的か」というよりは、「己の偏執的側面をどれくらい客観的に認識しているか」によってコミュニケーション態度の個人差が生まれます。また、同じ人でも状況や相手によってタイプの変化が起きます。なので、「自分はどのタイプか」と単純に考えるのでなく、例えば全体を100あるいは10とした場合に、この3つがそれぞれどの程度の割合を占めているか、という発想で考えた上で、「責任ある個人」が圧倒的優位な状態に近づけていくようにしています。
また自らは「責任ある個人」として意見を発信する準備ができていたとしても、相手がバランス病優位タイプの場合、それを踏まえた表現を選ばないとコミュニケーションが立ち行かなくなることが多々あります。これはカウンセリングの場において特に気をつけていることです。但し要注意なのは、バランス病に合わせたコミュニケーションを行うと、そこを突破口にしてウイルスが自分の側に感染してくるリスクが非常に高いことです。
補足しだすとキリがないので今回はここまでにします。「責任ある個人」として自由に表現し、一度きりの人生をしっかり命燃やして生きたいものです。