泣かなきゃお乳はもらえない

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以前ご紹介した「人生は観覧車」に続いてブラジルの諺を紹介します。

Que não chora não mama.

(ケ ナォン ショーラ ナォン マーマ)

一応カタカナ発音載せてますが、語学習得に関心のある方は無視してアルファベットだけ見て発音を対応させてください。

意味はタイトルにある通りですが、語学学習者向けに説明しておくと直訳は「Que não chora」が「泣かない者」で「não mama」が「お乳を吸えない(吸わない)」です。英語に対応させて説明すると「Que」が関係代名詞 that で、「não」は否定の no です。また「chora」はポルトガル語の動詞 chorar(泣く)の3人称単数形で、「mama」は同じく動詞 mamar(お乳を吸う、飲む)の3人称単数形です。まあ文法はこれくらいにしましょう。ご紹介したいのはあくまで諺の方です。

泣かなきゃお乳はもらえない。

これはとってもブラジルらしい諺で、簡単に言えば「黙ってても何も貰えないよ」つまり「欲しけりゃちゃんと要求しろ」ということです。それを大人ならまだしも乳飲み子で例えるところに、ブラジル社会におけるこの考え方の徹底ぶりが伺えます。同じことを日本の場合で考えると、「もう中学生なんだから」「もう大人なんだから」というように、「もう◯◯なんだから」という条件付きで要求されることが多いように感じます。つまり明確な基準はないものの「猶予期間」というのが多少あるわけです(で、この猶予期間を甘えて引き延ばす人多数)。これがブラジルの場合、乳飲み子の段階で言っちゃってるわけですから、もう世界観が全然違います。極端に言えば生まれ落ちた瞬間から「ようこそ世界へ、生き残りたきゃ要求しろ」って感じです。ブラジル人、逞しいわけです。実際、ブラジルの人達は自分の意見や要求をめちゃくちゃはっきり主張します。まあブラジルに限らず日本を出たらそんな国の方が多い気はしますが、日本みたいに「遠慮しながら、相手の様子を伺いながら、まずは遠回しに伝える」みたいなことはまずありません。察してナンボの日本世間と違って要求してナンボの世界ですから、「表明されなかった意見」が存在を獲得することもありません。日本のコミュニケーションに慣れた人間には衝撃的なギャップがありますが、逆に言えば彼らは要求されることにも慣れていますから、必要なことをどんどん要求したところで全く問題ありません(むしろ黙ってる方が問題)。おそらく多くの日本人にとって「これはさすがに言い過ぎかな」くらいでやっと現地の「普通」か、下手したらそれ以下です。そんな世界ですから、ブラジル人しかいない中で生活すると個として色々鍛えられます。ちなみにスペイン語でも全く同じ諺があります(ブラジル版と全く同じ文構造で「Que no llora no mama」です)。ブラジルに限らずラテンアメリカ社会(あるいは日本以外の大半の国)において、この考え方は標準になっているようです。

僕は日本の「察する」という文化も決して嫌いではないですが、少なくとも自己に関することにおいてはこの「明確に主張する」という姿勢を日本でも大いに取り入れるべきだと考えています。それは巷を騒がせている「クレーマー」とか「モンスターペアレント」的な意味での自己主張とは違います。前述したように、少なくとも自己に関すること、つまり「自分はどう生きていきたいのか」「自分は何を欲し、何を必要としているのか」ということを、自らの責任でしっかりと表明できる力は幼い頃から徹底して身につけるべきだというのが僕の考えです。「雰囲気で伝えて、歩み寄ってもらうのを待つ」というのは子供の態度です。そういう意味では、ラテンアメリカにいると子供と話していても「大人」を相手にしているような感覚になることがよくあります。この「乳が欲しけりゃ泣く」文化のいいところだけを日本語のコミュニケーションにも取り入れて、そこに我らが「お家芸」の「察する力」が良い形で加われば、これ以上ないくらいスムーズでストレスの少ないコミュニケーションが可能になるはずです。主張すべきことをしっかりと自分の責任で主張し、相手の主張も敬意を持って傾聴し、お互い前向きに妥協して共に前に進む。これが理想のコミュニケーションです。

さて、ここまで日本人の視点で「海外文化の美点をいかに日本に取り入れるか」という方向で考えてきましたが、これは逆もまた然りです。メキシコにいてもブラジルにいても、「お前らもう少し察しろ」と思うことは数え切れないくらいあります(泣)。少しでいいから日本を見習えと。まあ本当にどっちもどっちです。ウジウジ相手の顔色ばっか伺ってはっきりモノを言わない「日本のコミュニケーション」にうんざりすることも、唖然とするほど自分の立場しか考えずに好きなことばっか言う「ラテンアメリカのコミュニケーション」にうんざりすることも、どっちもあります。さらに残念なことに、僕自身の言動の中にもこの両方が入れ替わり立ち替わり現れます。「察するのが大人」「責任を持って主張できるのが大人」どちらも正解ですが、この融合系が理想なのは間違いありません。僕も融合系を目指しています。だからこそ、日本とブラジル(ラテンアメリカ)の交流に僕は大きな可能性を感じるのです。コミュニケーションの話に限りませんが、日本がもう少しだけラテン化して、ブラジル含むラテンアメリカがもう少しだけ日本化したら(どちらも「もう少し」というのがポイント)、それだけで世界はめちゃくちゃ良くなること請け合いです。目指せ、日本とラテンの融合系。

以上、ブラジルの諺のお話でした。

最後の最後に、日本人がこの諺を考える上で一番大事なこと。困っている人は、ためらわず助けを求めたらいいんです。それは悪いことではありません。お乳が欲しかったら泣きましょう!座って泣いてても誰も来なかったら、歩き疲れるまで泣きながら動き回りましょう!助けは求めていいんです。それではまた。