ツイッター上で流れてきたインタビュー記事で、大きく頷かされたものがあったのでご紹介します。格闘家のヒクソン・グレイシーが日本人に対して受けた印象を語ったもので、「ダイヤモンド社書籍オンライン」というサイトに掲載されています。以下、引用です。
――ヒクソン、あなたはとても親日家だとうかがいました。
ああ。私が初めて日本を訪れたのは、今から15年ほど前のことだ。
それまで私が日本に抱いていたイメージは、武士道、サムライ、強さ、礼儀、そして無敵の男が持つ一分の隙もない精神力、そんなものばかりだった。
ところが日本に来た私は失望した。
確かに深い尊敬の心を感じたが、それは強さや精神力ではなく、むしろ弱さから生まれるものだったからだ。いくら尊敬の心を感じ、厳しい規律を目にしても、そこにはなぜか強さがまったく感じられなかった。
――「弱さ」というのは、どういうことでしょうか?
言い換えるなら、人々がシャボン玉の中で暮らしているような気がする、ということだ。尊敬の心が感じられても、それは他人の人生を邪魔したくないと怖がっているからだったり、他人の意見を聞きたくないからだったりする。
私は日本が大好きだ。少なくとも文化についてはそう言いきれる。しかし、その弱さをを少し残念に思っているのだ。
たとえば、私の最後の試合となった東京ドームでの対戦(船木誠勝戦)のような格闘技イベントに行くと、床には紙コップ一つ落ちていない。試合に動きがあると、観客全体がほとんど同じ瞬間に息を呑む。「ヒクソン! ヒクソン!」という声援が聞こえることもあるが、そのタイミングすらもほぼ同じだ。
そんな光景を見ていると、人々がいかに安心してシャボン玉の中に閉じこもっているかが分かる。もう少し自分を出し、エネルギーを出しきって生きれば、どんなに幸せになれるだろうかと思う。
いかがでしょうか?
僕はもう、圧倒的に同感でした。ヒクソン・グレイシーという人については格闘家であるという以外何も知らなかったのですが、今検索してみたらブラジル出身と分かり、さもありなんという感じです。このインタビュー記事を読みながら、僕はずっとブラジルの人達のことを思い出していたのですが(本当です)、それはこの発言の主がブラジル人であることと、きっと無関係ではないと思います。
彼の言わんとしている内容を、もっと具体的かつ精度の高いところまで突き詰めたいのですが、まだまだこちらの表現力が追いついていません。ただ、結論はもう出ています。それは引用部分の最後にあたる「もう少し自分を出し、エネルギーを出しきって生きれば、どんなに幸せになれるだろうかと思う。」という言葉です。これは僕が実際に周囲の人々を見ていて、また何より自分自身を見ていて、最も切実に共感する部分です。その「幸せ」を実際に多くの日本人が実現するための道筋と方法は僕自身まだまだ見出せていませんが、これが日本の教育における最大の課題のひとつであることは間違いありません。
多くのブラジル人達と接していて感じるあの強烈な、痺れるような「手応え」の感覚を、日本でのコミュニケーションで感じる機会は多くありません。また、ブラジルに限らず多くの外国出身の友人達と接していて感じるあの自由で、肩の力の抜けた風通しの良い感覚も、同じく日本人同士のコミュニケーションではなかなか感じることができません。あの感覚が日本でも当たり前になったら、どれだけ多くの人にとって活き活きと気持ち良く生きられる場所になることか。この点について、日本人は真剣に諸外国から学ぶ必要があると思っています。例えば誰がどう見ても課題と問題が山積みのブラジルという国ですが、こと人間同士のコミュニケーションの在り方に至っては、世界有数の先進国であると僕は確信しています。だからこそ、そのブラジルから日本への深い敬意と憧れを持ってやって来たヒクソン・グレイシー氏のこの言葉には、真剣に耳を傾け、また向き合うだけの価値があると思うのです。
読者の皆さんも是非、一緒に考えてみてください。お願いします。