普通科の何が「普通」か分からない

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高等学校の学科に「普通科」というのがあります。かくいう僕も普通科出身なのですが、昔からこの普通科の「普通」という言葉がどうにも不可解で、大人になった今でも全く腑に落ちていません。とりあえず一般的な定義を押さえておきます。内容的に特に問題がなさそうなので、Wikipediaから引用します。

普通科とは、日本の後期中等教育を行う課程に設置される「普通教育を主とする学科」のことである。(引用元:Wikipedia

だそうです。となると「普通教育」というものの定義を更に押さえておく必要がありますね。同じくWikipediaによると、以下のように説明されています。

普通教育(ふつうきょういく)とは、

1. 全国民共通の一般的・基礎的、尚且つ国民に必要とされる教育で、職業的・専門的ではない教育。英: universal educationの訳で、日本では主に義務教育を指す。専門教育、高等教育などと対置される概念。

2. 特定の専門的な学問分野に限定されない基礎的な一般教育。英: general educationの訳で、専門教育に対置される概念。主に後期中等教育、高等教育における一般教育を指す。

引用元:Wikipedia

なるほど。つまり上記を踏まえると、ひとまず以下のようにまとめられます。

普通教育:職業的・専門的ではない教育

普通科 :職業的・専門的ではない教育を行う学科

要するに「職業的・専門的かどうか」というのがミソなわけですね。逆に「職業的・専門的教育を行う学科」というのが、商業科・工業科・農業科・水産科等の「実業高校」と呼ばれる高校で設置されている学科群だというわけです。ここで疑問が湧いてきます。特に以下の2点です。

【1】考え方によっては「職業的・専門的な教育」の方を「普通」と呼ぶ方が「普通」とも言えるが、そのあたりはどうなのか?

【2】「職業的・専門的教育」の対立概念というのは理解できるが、そこに「普通」という名称を持ってくるのは果たして適切なのか?

【1】については、歴史的に考えれば現在の普通科教育が社会の「普通」、つまり多数派に対する教育課程になっていった過程は理解できます。例えば、産業革命等により社会の工業化が進む中で、工場労働者等の「一般労働者」的な人間の育成が社会的に(というより国家的に)要請されるようになった経緯を考えれば説明はつくと思います。それは職人の仕事が工場に取って代わられていった過程でもあったことでしょう。また、学校教育という枠組みで考えれば、工業化社会以前の「職業的・専門的教育」というのは徒弟制度のもとで行われる方が一般的だったため、現在のような形の学校教育が誕生した頃には、今の「普通教育」の形こそが「普通」の名に相応しいものだったのかもしれません。

以上を踏まえて、ここから疑問【2】ということになるのですが、当時の工業化社会において定義された現行の「普通教育」の内容が、更に極端にソフト化・情報化が進んだ現代社会においても同じく「普通」の名に相応しいものなのかどうかという点について、もっと突き詰めた議論が行われるべきだと思います。そうでないと「普通科」の名の下に何となく(無意識レベルで)自らを「普通」だと思い込んで高校時代を過ごした若者達が、やがて「普通に」時代に取り残される可能性は高くなる一方です(もっと言えば、既にそうなっているように感じられて仕方ありません)。また同時に、現代における「専門的・職業的教育」の在り方と方法についても、改めて丁寧に考え直すべき必要があります。既に様々な学校が学科再編等を行っていますが、これらの変化が表面的・場当たり的なもので終わっては意味がなく、本質的で長期的視野に立ったものであるかどうか、市民がしっかり目を光らせながら一緒に考えていく必要があるでしょう。

いずれにしても、何が「普通」なのか全然分からない「普通教育」やその中身を漫然と鵜呑みにしていては、遅かれ早かれ「普通に生きていく」ことさえままならなくなります。今の時代、一体どんな教育・学習の在り方こそ「普通」と呼ぶに相応しいものなのか(あるいはそもそもそんなものが存在するのか)、これは誰もが考えてみる価値のあるテーマです。読者の皆さんも是非、一緒に考えてみてください。この時代に相応しい「普通教育」の在り方を、共に模索していきましょう。

それではまた。