2013年9月に鳥取市商栄町でスタートし、翌々年の4月に一度閉館していた寺子屋ですが、来月からいよいよ公式に復活させます(意外と1年しか閉めていなかったことに今気付いて何だかびっくりしました)。昨年11月下旬に同じ鳥取市内の松並町に新テナントを借りてから、今週で半年が経過することになります。長いような短いような半年でしたが、そもそも昨年夏の時点ではこんなに早くまた場所を借りること自体を想定しておらず、暫くは特定の拠点を構えずに働くことを考えていました。しかし毎度のことながら人生なかなか思ったようには運ばないものです。小学生の少年と町を散歩していたとある水曜日の夕方、前を通り過ぎかけた瞬間に引き寄せられるように二度見し中を覗き込んだその物件は、まさに「見つけてしまった」あるいは「出会ってしまった」としか表現できない場所でした。自分の仕事や人生の方向性やら資金的事情やら本当に色々考えましたが(そして妻にも協力してもらって他の物件も色々探し歩いてみたりしましたが)、やはり前述したような「出会ってしまった」物件というのは直観的に分かってしまうもので、しかも不思議と話も進むものです。物件の大家さんが、親しい方と旧知の仲にあるご夫婦であることが分かり、仲介業者を通すことなく直接個人的にご紹介をいただきました。それでもギリギリまで決断を迷いましたが(魂が引き寄せられ、心も決めていながら、頭で迷うわけです。でもその迷いも実際ある程度は大事なわけです)、最終的に独りで祈って確信が得られたので、思い切って契約しました。正直言って「いやー借りちゃった(どうしようか)」という思いもありましたが、先程から繰り返しているように「出会ってしまった」のですから仕様がありません。それにそういう形で分かりやすい変化を具体的かつ物理的に起こしてしまうことって、自分の人生に必要な変化を促すための「ショック療法」のような作用をもたらすことも多いものです。そして人は遅かれ早かれ変化に慣れる(適応する)生き物です。借りたテナントの面積は正直に言って広過ぎるくらいで、お家賃も以前借りていた場所に比べれば大きく上がりましたが、それでもやはり、だんだんと慣れてくるから不思議です。自分の生活の一部として溶け込んで、「そういうもの」という感覚になってきます(逆に言えば不健全な方向の変化にも人は容易に慣れるわけで、それが例えば世を賑わす「お偉いさん」の金銭感覚や企業による不正常態化だったりするのでしょう)。ともあれ、僕にとっては文字通り「身に余る」場所を思い切って借りてしまったことで、自分の生活の方向性にひとつの明確な軸ができたことは事実です。それが永遠に身に余るようであれば潔く撤退ですし、しっかり適応してピタッと合うようになれば、そこは自分の場所になります。つまりこの半年間は、「場の要請に僕が合わせていくベクトル」と「僕の身の丈で場を馴らしていくベクトル」という、2つの異なるベクトルが拮抗し合う時間だったのだと、今振り返ってみて思います。前者は、場が持っている大きさや可能性を僕が正面から受け止めて想像を巡らしイメージを膨らませ、そうして出来上がった絵に対して物理的側面を追いつかせていくというベクトルです。これを実現するためには具体的な技術やらお金やらが必要になってくるのですが、必ずしも僕が十分なだけのものを持っているわけではありません(ていうか全然持ってない)。そこがこの数ヶ月、最も葛藤した部分でした。場と自分が出会ったタイミングは神様が備えたものだと思って決断したので、そこは動かぬ事実として受け入れられますが、その割には僕と場のサイズが必ずしも噛み合っていないという現実がある。結局これを解決する手段としてはどうしても「時間」というものがある程度は必要になってくるわけです(結果的に半年で済んで本当によかった)。すなわち僕と「場所」とがお互いを探り合い、知り合う期間です。それは目には見えないコミュニケーションですが、実感としては間違いなく存在するものでした。一種の交渉ごとなので、色々と言いたいこと、通したいことはあっても、最後はうまく妥協点(落としどころ)を見出していく他ありません。また交渉ごとには時間制限というものもあります。人生は短いわけですから、どこかで踏ん切りをつけねばなりません。この「踏ん切り」に関しては、息子の誕生という出来事が大きく後押ししてくれました。というか、既にテナントを借りていたにもかかわらず寺子屋再開を延ばしていた最大の理由は実はこれだったのですが、今月初めに無事産まれてきてくれたことでひとまず安心し、ようやくテナントの方にしっかり意識と注意を向けることができました。この数ヶ月続けてきたテナントとの睨めっこにひとまずケリを付けようじゃないかと、場所に対して正面から積極的に対峙することができたわけです。
その結果、僕が何をしたかというと、大掃除でした。勿論これまでにもちょこちょこ必要な範囲の掃除はしていましたが、何かもう完全に勝負を挑むような圧倒的な大掃除というのは、おそらく最初に借りた時を除けば初めてだったと思います。やってみて改めて思いましたが、掃除ってのはやはり不思議な力がありますね。掃除に関しては僕がツイッターで書いたことをそのまま載せておきます。
今週に入ってから寺子屋テナントを大掃除&模様替え中。窓拭き、掃除機、雑巾掛け、並べ替え、テーブル拭き。ひとつひとつの作業が場所と向き合い、会話し、関係を深めていく儀式。星の王子さまとバラじゃないけれど、かけた時間と手間の分だけ親しく懐かしい関係になっていく。大事な時間。
— Taka Sakamoto (@grantottorino) 2016年5月17日
途中、モップがあるんだから床はモップ掛けでもいいじゃないかと思いかけたのですが、自分の中の本能的な感覚がどうしてもそれを許しませんでした。どれだけ広くても、全面積自分の手で雑巾掛けをすることが床のひとつひとつの場所(部分)に対する挨拶の儀式のように感じられて、結局全面やりました。やはりモップと雑巾では、文字通りの意味で手応えが違います。
で、そんな風に掃除を続けるために途中で色々と物を動かしていると、自然と物の最終的な配置に関するアイデアが湧いてくるから不思議です。それは「インスピレーション」という言葉を使っても差し支えがないような感覚で、「思いつく」というよりは「見つける」「分かる」「辿り着く」に近いものです。数ヶ月に及ぶ擦り合わせと睨み合いの末の掃除という挨拶の儀式を経る中で、何だか場所の方も僕に対してコンタクトしてくれているような状態になってきます。僕の身の丈や持ち駒を場所が理解し受け入れてくれた上で、「だったらそれはそこに置いてくれ」とでも言ってくるような感じです。ここまでくれば、「場所」は自然と出来上がっていきます。僕は指示に従って手足を動かすだけです。
そんなわけで、まだまだ未満で未完成ですが、現時点でベストに近い状態にまでは何とか持ってくることができました。ここから先は場所と歩調を合わせて一緒に階段を登っていくように(集まる人達とも時の流れを共有しながら)更に充実させていきたいと思います。場所を育てるというのはなかなか一筋縄ではいかないですが、ゆっくりじっくりやっていくつもりです。
今回も書きながら考える形で原稿を進めたので、思わぬ方向に話が向いてしまいました(最初にタイトルを決めて書き始めたものの、途中で内容が予定とすっかり変わってしまってタイトルの方を差し替えるパターン)。まあ、こういうスタイルと歩みでじっくり作られた場所ですよということで、興味を持ってくださった方は、是非寺子屋通いをご検討してみてやってください。今回ご紹介した場所の整え方と同様、一見スローなようでその実すごく濃密な学びの場がここに在ります。