息子誕生に伴い、約2ヶ月前から毎日「赤ちゃん」なる存在とともに生活しているわけですが、「親なら誰もが通る道」を御多分に洩れず歩んでいるところです。抱っこしている赤ちゃんや、寝転がっている赤ちゃんが、こちらと目が合っているようで合っておらず、というかそもそも視力そのものがまだ整っていないにもかかわらず、明らかにはっきりと何かを見ているような目で、こちらの目には何も映っていないような空間の一点を一生懸命眺めている、という場面に度々出くわします。妻も僕も、何度か振り返ってそこに何かいやしないかと確かめてみたりしていますが、今のところ何も見えていません。最近は僕らと目を合わせてくれている風な場面もだんだん増えてきたのですが、僕らとしてはやはり「赤ちゃんには僕らには見えない何かが見えている」と思わず考えずにはいられません。神様の姿が見えているのかな、なんてちょっと期待してみたりもするわけで、何度か彼に「何が見えとるだ?」と直接聞いてみたりもするのですが、いかんせん言葉が通じないので、答えが返ってくることはありません。むしろ僕が目を合わせて問いかけようとするその視線をかわすように、僕の顔が重なって見えなくなってしまってたその何かをもう一度探そうとするかのように、首を伸ばしたり反らしたりして懸命に「それ」を探しているのです。
考えてみれば僕もかつて同じように、現在の自分には見えなくなってしまった何かを懸命に見つめていたのかもしれません。思い出そうとしてみたところで何も浮かんできてくれないので、おそらくもうすっかり忘れてしまったのでしょう。そう思うと、今目の前にいる我が子もまた、懸命に首を伸ばして見つめていたその「何か」の姿も存在も、いつしか本人にも親にも分からないうちに、忘れていってしまうのだろうということに気付かされます。少しだけ勿体ないような、切ないような、寂しいような感じがしますが、それが「人間になる」あるいは「人間の世界に馴染む」ということなのかもしれません。おそらくごくごくたまに、赤ちゃん時代に見えていたものが大きくなってもそのまま見えるような子もいるのでしょうが、我が子がそういうタイプなのかどうかは現時点で全くわかりませんし、まあどちらでもよいことです。
僕なんかは何だかんだで前向きな性格をしているのか、先ほどもチラッと書いた通り、彼が見つめているのは彼をここに送り込んだ神様なのかな、なんて想像をしてみています。
みたいなことを書いてたらちょうど今、横で寝ていたその赤子が目を覚まし、まっすぐじっと僕を見ていました。目が合いました。しばらく目を合わせていたら、ふっと笑うような表情を一瞬見せた後(最近よく笑います)、右を向いて顔をそらしました。
大人の側の身勝手な解釈に過ぎないのでしょうが、「何をアホなこと書いとるんじゃ」って軽く笑われた気がしました。この赤ちゃんという生き物は、まだ手と足をバタバタさせる以外に全然動けないくらい絶対他力の世界を生きているのに(この「のに」が適切な表現かどうかも分かりませんが)、どうしてこうも見透かすような眼差しを向けてくるのでしょう(今は最近覚えた指しゃぶりをしながらまたウトウトしています)。
ともあれ、お陰様で毎日全く飽きない生活をさせてもらっています。それにしても何を見てるんだろう。言葉を覚えるか覚えないかくらいの頃に、チャンスがあったらもう一回聞いてみようかなと、密かに画策している今日この頃です。
あ、今日選挙ですよ。僕らもさっき投票行ってきました。まだの皆さん、もう一回言いますが、今日選挙ですよ。赤ちゃん達は僕らに見えないものを見てるようですが、僕らは僕らで赤ちゃん達にはまだ見えないし分からない問題の中を生きているわけで、少なくとも今自分達に見えている物事からは目を逸らさないようにして生きていきたいものです。あ、また赤子がこっち見とる。
それではまた。