元陸上選手の為末大さんがリオ五輪について発表されたコラムが印象的だったので、それについて書きます。短いので以下に全文引用した上で、結論に関する部分を太字にしておきます。こちらです。
正しい選択と圧倒的な努力
今回のオリンピックは、これまでよりもさらにドラマが多かったように感じられた。特に選手のひたむきな姿勢は多くの感動を呼んだ。私たちが見ていたこの17日間で起きたことは、いわば最後の仕上げだ。では、それまでのどんなものが勝負を決めているのか。個人の努力や技術革新、チームとしての空気作りなどあると思うが、私は最も影響を与えたものは、それぞれの選手が自分に向いた競技を選んだことにあると思う。
例えば体操だ。日本選手も含め、どの選手も身長が似通っている。昔、質問をしたことがあるが、高身長になると回転ができなくなるために不利なのだそうだ。よく知られているが、陸上のセルゲイ・ブブカ(ウクライナ)は体操をやっていた。身長が高く体操に不向きだったために転向したといわれている。そのあと、棒高跳びで世界記録を35回更新した。
今回、卓球で銅メダルを獲得した女子3選手の卓球開始年齢は、2歳(伊藤美誠)、3歳(福原愛)、7歳(石川佳純)だと公表されている。遅くとも小学1年生には卓球を始めている。動体視力が勝負のカギになるため、早いタイミングで慣れておかないと後からでは追いつきにくいからだといわれている。
100年前のオリンピックでは、そもそもの理念に完全な肉体というものもあったから、レスリングの選手も円盤投げの選手も体形が似通っていた。それが競技レベルが上がり、より有利な体形や経験に特化しつつある。今や体操選手とハンマー投げ選手の体形は似ても似つかない。
努力で不利な状況ながら頑張ったというのは私たちの心を打つが、本来は向いていることに努力を投下するのが一番高いところまで行ける確率が高い。実際にオリンピックは、まるであそこにいる人たちだけで勝負が決まっているように見えるが、本当はもっと前に数千、数万の中から選ばれた人だけがオリンピックの舞台に立っている。そのためには向いていることで、かつ圧倒的な努力をした人にしか権利は得られない。
今回の大会で、あきらめないことが大切なんだという学びを得た人は多いと思う。私もそう感じた。一方で選手はすべてにおいて完璧ではなく、自分の力を発揮できる道を選んだからこそ、オリンピックに出られたというのも注目したい。偉業とは、自らを知り、正しい場所で、正しい方法で、圧倒的な努力をした者にのみ与えられる。
【為末大】ニッカンスポーツ五輪コラム「為末大学」 (2016年8月23日付)
適切な具体例を適度に挟みながら、一般的な意見にも配慮した上で自らの主張を丁寧に繰り返す、評論のお手本のような文章です。内容もさることながら、構成にも氏の知性が垣間見えます。「感じたことを適切な言葉で的確に伝える」という力をここまで持っているトップアスリート(または元トップアスリート)は稀有ですし、社会にとっても貴重な存在だなと改めて感じます。一流の競技者だからこそ覗いた世界、達した領域、感じたもの、掴んだものを、明確に言語化して我々(非競技生活者)にもシェアしてくださるのはとっても有難いことで、我々はそこから多くを学ぶことができます。今回ご紹介したコラムも同様です。
「あきらめないことが大切」というメッセージはいかにも聞こえが良く前向きに感じられますが、そこには時に落とし穴もあるということをきちんと指摘するのは極めて大事なことだと思います。ことによっては「上手に諦める」というのも大切なことだからです。「諦めずに努力」を始める前の段階でまずやるべきことがあり、それが「己を知り、適切な道を選択する」ことだと。この主張に疑問の余地はないでしょう。一人の時間は有限で、人生は短く、能力にも限界があり、個人ごとの向き不向きも存在するこの世界の現実の中では、ある意味その選択が努力以上に命運を分けると言っても過言ではありません。
ところで「選択」ということについて進路や生き方の話をすると、何を選ぶとか選ばないとか以前に、とにかくまず「選択肢を広げる」ことを優先して進路指導を行う親御さんや教育関係者は多いと思います(そしてその考え方を鵜呑みにして生きている少年少女や若者も)。具体的に言えば「理系から文系に行くのは比較的容易だけれど逆は難しいから、とりあえず理系に行っておけ」とか、「普通科の学校の方が選択肢が増えるから普通科に進学するのが良い」とか、「選択肢を広げるために大学には行った方がいい」といったことです。僕自身もまさに経験者で、前述のような台詞を幾度となく聞かされました。しまいにゃ大学生になっても「まずは大企業に」という「助言」が同じ調子で勢いよく飛んできて辟易したことを覚えています。
「ひとまず選択肢を増やす」ということ自体は、僕も決して間違いだとは思いません。ただ、それをいつまでやるの?ということについてはもっとシビアになってもいいと感じています。当たり前のことですが「選択肢を増やす」というのは最終的に「選ぶ」という決断に向けた過程に過ぎないわけで、増やすこと自体が目的化してしまったら、それは終わりなき時間の浪費と機会の逸失になってしまいます。前述したように人生は短く時間は有限なわけですから、どこかで必ず「選ぶ」あるいは「決める」という瞬間はやってきます。それを先延ばしすることで得られるものと失うもの、両方があることはしっかり認識すべきですし、最後は選ぶんだというゴールを見失っては元も子もありません。
つまり、圧倒的な努力の前に適切な進路選択が必要なのは既に確認した通りですが、そのもうひとつ前の段階において「選択」そのものに対する覚悟も必要だということです。別の言い方をすれば、何かを選ぶことによってそれ以外は選ばない、つまり「他は捨てる」という覚悟です。もちろんそこにはリスクが伴いますが、そもそも何かを「選ぶ」というのはそういう行為ですし、「何も選ばずに生きる」ことのリスクに比べれば微々たるものでしょう。「失敗」(選択ミス)の可能性を恐れる人は多いですが、失敗を避ける生き方こそ人生に対する失敗だということを知っておかなければなりません。そしてその選択の精度を高めるために必要なのが「自らを知る」ことだというわけです。
じゃあどうやって自らを知るのかという問題についてですが、これは難しいですよね。僕もこの部分でまだまだ苦労している一人なので知ったようなことは書けませんが、とりあえず思いついたことだけ箇条書きにしておきます(順不同)。
- 好き嫌いと向き不向きを分けて考える
- 適切かつ必要な範囲の比較検討を行った上で、自分の限界と可能性を冷静に見極める
- 自分をよく知る他者に自分の適性について意見を貰い、傾聴する
- 漫画『ハンター×ハンター』の「念能力」の話を熟読し自分に置き換える
「好き嫌いと向き不向き」については、「好きでしかも向いている」と「嫌いだけど向いてる」にチャンスありです(あるいは「よくわからんけど向いてる」でも)。また「自分をよく知る他者の意見」については、「何となく」発せられる直感的な意見にリアリティがあることが多いようです。それと『ハンター×ハンター』のくだりは冗談みたいに思われるかもしれませんが、僕は冗談抜きでオススメしています。「自らを知り、正しい場所で、正しい方法で、圧倒的な努力」をするという営みの本質と細部とが見事に漫画化された作品で、これを読むと、他ならぬ自分自身の「能力」を見極め、引き出し、高めていくプロセスがよく分かります。
せっかくなので、今回のテーマに関連した為末さんの著書も紹介しておきます。タイトルはズバリ『諦める力』。コラムを読んで彼の考え方をもっと深く知りたい、理解したいと思った方は是非手に取ってみてください。目次を読むだけでも共感できることばかりで、オススメです。是非。
プレジデント社
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