2013年から鳥取市内で運営している我が寺子屋ですが、そこで一体何をしようとしているのか、ということが3年経って改めて自分の中でも明確になってきました。幾つかありますが、その中でも最も重要な軸の一つが「リベラルアーツ教育およびリベラルアーツ学習の普及」です。
「リベラルアーツ」と言われても何のことか分からない、聞いたこともないという方が世代を問わずまだまだ沢山いるという事実とも向き合ってきたこの何年かですが、僕はやっぱりこのキーワードを大事にしたい。いわゆるカタカナ語のキーワードを前面に出すことは個人的に決して本意ではないのですが、だからといってこの言葉の持つ意味やニュアンスを余すところなく伝える適切な和語の単語も見つかりません。「liberal arts」と英語で書くか、カタカナ表記で「リベラルアーツ」とするかのどっちかしかないのです。
激しい変化の只中にある21世紀社会の教育現場において、考えるべきこと・やるべきことは無限と言っていいほど沢山あります。しかしながら当然、あれやこれやと何でも手を出すわけにもいきません。特に当寺子屋のような個人が運営する小さな現場では、どうしても割り切って的を絞っていく必要があります。
しかしながら、いわゆる「受験」や「成績アップ」に的を絞るということは当初から全く考えていませんでした(詳しくはこちらを参照)。もちろん結果的にそういうものも指導内容に含まれてくることはありますが、それが「ゴール」なのか「プロセスの一部」なのかの違いは大きいです。「受験は通過点に過ぎません」と言いながら実際には受験がゴールみたいな内容の教育現場が溢れかえってる中で、理念・内容の両面においてもっと現代的で広い視座に立った現場を創りたかったのです。
となると必然的に、学校の学習科目とおなじものを看板に掲げるわけにもいきません。「国語」とか「英語」とかみたいな単語を前面に出してしまうと、どうしても「それ以外」の部分は「ついで」のような位置付けになってしまうので、それは避けなければいけませんでした。
そんな中で、「リベラルアーツ」という言葉自体は寺子屋創設当初から僕の頭の中にありましたし、実際にそれを生徒や周りの人々に対して口にしたことも何度かあったように思います。しかしながらこの単語の一般的な認知度は想像していた以上に低く、「何か東京から帰ってきてよく分からんカタカナ語を連呼しとる人」みたいになって終わるんじゃないか、と危惧しないわけにいきませんでした。特に寺子屋の最初の数年間は、「『自分の中の構想」と『鳥取の現実・現状』との擦り合わせ」がメインテーマの一つでしたから、リベラルアーツであれ何であれ、「結局伝わらない」と感じられるものを敢えて前面に出そうとは思いませんでした。しかしながら、じゃあ自分の目指してるもの、やってることを別の言葉でどう表現すればいいかと考えてみても、なかなかその答えが出ないわけです。
そういう意味で、東京の三鷹市にある学習塾「探究学舎」は画期的なケースだと思います。「探究」という名の新科目一本で勝負している全国的にも珍しい教育現場です。ここの塾長である「やっさん」こと寳槻泰伸氏は、僕が学生時代にお世話になった大恩人であり、共に教育の道を選んだ同志であり盟友であり、ほとんど義兄弟のような間柄の人なのですが、彼も長年に渡る試行錯誤の末にこの「探究」というキーワードに辿り着き、そこで遂に突破口を見出しました。今では「寳槻泰伸=探究」といってもいいくらい、「探究」という一本の道に絞って文字通り探究を続けています。人生を懸けるに値するシンプルなひとつのキーワードに遂に辿り着いた彼を数年前から見ているのですが、正直その姿はちょっと羨ましくもありました。もちろん選んだその道を極めていく大変さや苦しさは当然ありますが、少なくとも最初の「産みの苦しみ」は抜けて軸が一本に定まったわけですから、ある意味「楽になった」部分もあるだろうなと。
そんなことを考えていたくらいなので、「僕も『探究』を前面に出していくべきかしら」と思ったことも何度かありました。実際、探究的な学びというのは我が寺子屋でも自然に取り入れていましたし、探究学習を実施する学校も全国的に増えてきているという時代の流れにも合っています。何よりシンプルな熟語で分かりやすい。でも、最終的に何かがしっくりこなくて、その決断に踏み切ることはありませんでした。もちろん「探究学習」そのものがしっくりこないのではなくて、僕が自分の現場でやろうとしていることを表すキーワードとして何かがまだ足りないと感じたということです。
というようなこと色々考えたりしながら、自分が運営する教育現場における的の絞り方、軸の定め方を模索し続けてきました。あ、ひとつ一貫して明確だったのは「鳥取」というキーワードです。今後世界に何かの形で出ていくことはあるとしても、その拠点であり原点を鳥取とするということだけは絶対不変の方針でした。それは今も変わらず持っているものです。でもそれは「場所」の話であって学びの「中身」そのものではりません。具体的な中身ということになった時に、上に挙げた探究学舎でいう「探究」みたいな明確な軸となるキーワードで表現する術がなかなか見出せなかったのです。
しかしそれももう、昨年までのことです。2017年からは、そこを思い切って開き直ることにしました。結局リベラルアーツなのです。僕が寺子屋でこれまでやってきたことも現在やっていることも、もっと言えばこれまでの人生で僕自身が実践してきた学び方も、全部僕にとっては広義の「リベラルアーツ」なのです。結局3年模索しましたが、これ以外に言いようがない。
というわけで当寺子屋は2017年以降、今まで以上に自覚的かつ明確に「リベラルアーツ」を軸として活動を展開していきます。鳥取を拠点に、可能な限りオーダーメイドな方法でリベラルアーツ教育を実践していく現場。これこそが僕が実際にやってきたことであり、現在も続けていることです。「リベラルアーツ」という言葉の浸透度が低いから難しい、何か別の表現を探そう、と思うのもやめにします。むしろこちらから積極的に広めていくくらいじゃないといけません。だってリベラルアーツ、大事ですから。
ここまで読んで「結局リベラルアーツって何なんだ?」と思われた読者の方もおられることと思います。興味を持っていただきありがとうございます。今回は字数も多くなってきたのでここで記事を閉じますが、次回以降はこの「リベラルアーツ」が意味するもの、その中身について、もっと具体的に書いていくことにします。待ち切れないという方は是非、ご自身で色々調べてみてください。楽しい世界が広がりますよ。僕もなるべく間を空けずに色々書きます。そして軸をはっきり自覚した以上、2017年は僕自身が改めて「リベラルアーツ」を極めていくことにします。極めようとして極まるような道ではないですが、軸があるのは有難いことです。
それではまた。