英語が大事なのは分かるけど、

IMG_20170216_082826.jpg

2月15日の地元紙「日本海新聞」の1面です。幾つか気になる見出しが散見されますが、今回のテーマはマークした部分です。これまでは評価の対象外である「活動」としての位置付けだった小学校での英語が、今後いよいよ評価対象の「教科」に格上げされるそうです。評価対象になるというのは、簡単に言えば「成績が付く」ということです。これはちょっとした変化ですね。成績が付くことをモチベーションにして頑張る子も増えるかもしれませんが、成績に振り回されて英語習得に対していっそう強迫観念的になる保護者や、義務感・プレッシャーのゆえにますます英語嫌い&外国語嫌いになる児童も増えそうです。英語が教科になるという結論そのものに根っから反対なわけではありませんが、こういうニュースを見るたびに「ほんと英語英語うるさいなあ」みたいな辟易した気持ちになるのも事実です。

英語が現代世界における最大の国際共通語であるという時代の現実や、戦後の日米関係という歴史的文脈を考えると、日本人の多くが「英語!英語!」ってなるのは理解できます。かくいう僕自身がそんな日本の環境下で育ち、「外国語=英語」という前提を疑うこともなく10代の外国語学習を英語に費やして過ごした人間の一人です。言葉の問題だけでなく、完全に「洋画=アメリカ映画」「洋楽=英語の音楽」でした。田舎の少年なりに「国際人」というものになりたいと願い、国連公用語(英語・フランス語・スペイン語・ロシア語・中国語・アラビア語)のうち2つくらいはマスターせねば、なんて思ったりもしていたのですが、いかんせん英語以外の言語をどうやって学んだらいいのか全く分からない。今になって振り返れば視野狭窄という他ありませんが、それが僕が生きていた世界の「当たり前」でした。

しかしその後、少なくともあの当時よりは広い世界に出て、色々な国に友人もできて、英語を含む複数の言語を日常的に使って生活するようになった今、あの当時とは全く異なる感覚で語学学習・語学教育を考えるようになりました。もちろん英語が話せることの強みは身を以て理解していますが、だからと言って「皆がさっさと英語をやるべきだ」と思っているかというと全然そんなことはなくて、むしろ「別にそんな皆いきなり英語ばっかせんでもいいのに」と思っています。

「外国語」というのは誰もが学んだり身につけたりする価値のあるものだと信じていますが、それが必ずしも「英語」である必要はない。何も全員が全員、横並び一列で英語から勉強しなくたっていいと思うのです。人によっては近所の国の言葉である韓国語や中国語やロシア語をやったっていいし、思い切ってアラビア語に挑戦してみたっていいし、あるいはスペイン語やポルトガル語を学んでラテンアメリカを目指したっていいわけです。つまり、「英語以外」の言語を「第一外国語」として学んで、その後に「第二外国語」あるいは「第三外国語」として英語を学ぶという選択肢があってもいいというのが僕の意見です。英語ほど圧倒的ではないにしても、最近はその他の多くの外国語に関しても質の良い様々な教材が揃っていますし、日本の語学学習環境はなかなかバカにできないのです。もちろん指導者の問題もありますから、学校でいきなり複数の言語の選択肢、とはいかないことは分かります。でも例えば英会話教室に通う代わりにスワヒリ語を学ぶみたいなことは場合によっては可能なわけです。近所にスワヒリ語圏出身の留学生が住んでいて気が合えば、彼なり彼女なりの言葉とその母国の文化を教えてもらえばいいのです。あるいは近所のインドカレー屋さんに通ってヒンディー語を習うという方法もありますし、とにかく身の周りにきっかけと縁があれば、思い切って「そっち」に行けばいいと思うのです。あるいは周りにそういう出会いがなくたって、インターネットを使ってアラビア語を学ぶとか、今の時代そういうことは幾らでも可能なわけです。現にインターネットを上手に使って、ほとんど日本に来たこともないのに日本語を流暢に操る外国人も沢山います。その逆バージョンになればいいのです。

しかしながら僕が幾らこうやって書いたところで、大多数の人が「いやでもまずは英語ができなきゃ」と言い返さずにはいられないのが憂き世の現実です。実際によく言われます。あるいは「そう言ってる自分がまず英語を習得してるじゃないか」という反論も受けたことがあります。でも考えてみてください。僕が「外国語=英語」と思って英語ばかり勉強していたのは今から10年以上前の話です。しかもその間にインターネットが急速に発達して、僕が英語を勉強していた頃と現在とでは基本的な学習環境が様変わりしています。

もちろん、そうやって反論したい方、納得しきれない方の気持ちも理屈も理解しているつもりです(僕自身の過去に同じ姿が在るのですから)。だからこそこの点は強調しておきますが、こちらは「そんなこと」とっくに理解した上で、敢えてこういう意見を述べているのです。

失礼を承知で率直に申し上げると、「まず英語ができなきゃ」と言い続けている割にその英語すらも全然習得できていない学習者の皆さん、あるいは我が子に対して「とりあえず英語くらいはできるように」と思っているが、ご自身は外国語が全くできないという親御さん方の大多数が、根拠のない「英語至上主義」に囚われ過ぎています。はっきり言って、別に英語くらいできなくたって死にゃあしませんし、逆にちょっと英語ができたくらいで食べていけるほど世の中甘くもありません。

何が言いたいかと言うと、下手に無理してやろうとしてストレスや劣等感の種になるくらいなら思い切ってやめてしまえばいいし、自分自身の中に「明確な目的」や「よくわからんけどワクワクする感じ」のどちらかでもあるのなら、それが何語であっても自分を信じてやっていけばいいということです。

学校に通っている場合「やめてしまう」ということは難しいかもしれませんが、そういう人達は無理してテキストに向かわず、まず映画や音楽に親しむことから始めてみれば、どこかでワクワクするきっかけに出会える可能性は高くなります。あるいは極端な話、学校の成績が悪いのが全く気にならず、かつそれが自分の進路選択にも影響しないと確信できるのであれば、他に興味を持てることに夢中になったらいいと思います。語学習得が人生にもたらす豊かさを知る身としては、とりあえず目の前にある英語学習の機会も積極的に活用してほしいところですが、それはもう個人の趣味嗜好や価値観の問題です。またいつか本気でやりたくなった時に始めたって、決して遅過ぎるということはありません。

と、突き放したことを多少書きましたが、寺子屋教師として教育現場に携わっている身としては、子供にも大人にも英語を含む外国語を学ぶ楽しさや豊かさを伝えられる方法の研究開発に日々勤しんでいる今日この頃です。

繰り返しますが、「英語なんかやらなくていい」と言っているのではありません。ただ、深く理由を突き詰めもしないで「まず英語」「とにかく英語」という発想になるのはちょっと違うんじゃないの、ということをお伝えしたかったのです。「世界」は広いです。騙されたと思って、少なくとも一度は「英語以外」の世界にも興味を持って、目を向けてみてください。音楽でも映画でも、あるいは旅行でも構いません。是非。

以上、ある日の新聞の一面からの雑感でした。