従来型の「学校」とも「学習塾・予備校」とも異なる「第3の学び場」の創出を目指している我が「寺子屋」ですが、実際のところ一体どんな生徒が対象になるのか、ということをしばしば尋ねられます。これには幾つかの説明の仕方があるのですが、今回はそのうちのひとつを本ブログでご紹介します。
それは一言で言えば、タイトルにもあるように「2-6-2の2と2に含まれがちな人」です。これは組織論においてしばしば語られる「2-6-2の法則」という考え方をベースにした表現です。すなわち、会社でも学校でも、一般に人間の組織(集団)の中身は2割の「出来る人」、6割の「普通の人」、そして2割の「出来ない人」に分かれるという考え方です。この「出来ない人」のグループがいわゆる「落ちこぼれ」と呼ばれ、一方「出来る人」のグループは「浮きこぼれ」(または「吹きこぼれ」)と呼ばれることになります。「浮きこぼれ」という言葉は耳に馴染みのない読者の方もおられるかもしれませんが、世の中にはそういう表現の仕方があるようです。僕も大学生になってから知りました。
はじめに断っておくと、僕はこの「2-6-2の法則」を必ずしも「法則」として信じているわけではなく、単に物事を理解する上での「考え方」として時に有効なカードのひとつだと思っているに過ぎません。なので、この記事を読んで初めて「2-6-2の法則」を知った方も、鵜呑みにして何でもかんでも「2-6-2」に当てはめてものを考える必要はないということを予め確認しておきます。
その上で、僕が運営する寺子屋に適性のある生徒像をざっくり理解していただくなら、「各学校(あるいは会社等の組織)における『2-6-2』の『2』と『2』に含まれがちな人」という表現が、わりと正鵠を得た説明になります。すなわち、その所属する場において「浮きこぼれ」や「落ちこぼれ」とされる人達です。逆に言えば「6」の中に収まっている人達については、少なくとも僕の寺子屋に対しては適性が低い可能性が高いということになります。ちなみに、この分け方は必ずしも学校内の学業成績の順位に対応したものではありません。順位も参考にしながら、学力・行動・考え方など総合的にその子を見たときに、「2-6-2」のどの辺か、という直感的な感覚で見ていただく方がかえって分かり易くなると思います。以下、この「2」「6」「2」のそれぞれの特徴を挙げながら、寺子屋での学習への適性について説明します。
【「浮きこぼれ」の「2」】
このタイプは、端的に言えば「学校での学習では物足りない」というタイプです。但しこのタイプには少なくとも2種類あって、ひとつは「学業成績向上」や「志望校合格」を目指す上で、学校・塾で課される勉強の質や量に不満があるというタイプです。いわゆる「秀才」と言われる人達ですね。このタイプが感じる「物足りなさ」は、単純に学校の平均的な学力レベルに対して当人のそれが大きく上回っており、自分に合ったレベルの授業や課題を求めることからきています。この場合の解決策は、出来るだけ「ハイレベル」な進学塾に通うか、近くにそうした塾がなければ通信教育を使うことです。あるいは『大学への数学』などの雑誌に取り組んだり、書店で自分に合った参考書を求めることでも解決が可能です。
一方もうひとつのタイプというのは、「志望校合格」や「成績アップ」といったものを条件次第で必要なものとしてしか捉えておらず、より根本的な学ぶことそのものへの渇望感を抱えているタイプです。このタイプは、学校で提供される学習内容や課題そのもの以上に、学校が持っている教育・学習上の思想や理念、目的などの価値観をよく観察し、その在り方に対して強烈な違和感を感じています。つまり学力面では学校についていけても、学校の考え方にはついていけない、というタイプです。そもそもなぜ学ぶのか、何のために学ぶのか、という学習観そのものにおいて共感できる師との出会いや、その疑問の持ち方自体を評価してくれる環境を求めています。このタイプにとって、学業成績というのは学習が生み出す結果の一つではあっても、それ自体が目的になるということはまずありません。
既にお分かりかと思いますが、僕の寺子屋に適性が高いのはこの後者のタイプです。理由を正直に言ってしまえば、僕自身がまさにこのタイプだったからです。特に高校時代は完全に前述のような浮きこぼれ状態でした。大人になった今、僕が他でもない鳥取の地で寺子屋作りを続けているのは、結局のところ「あの頃の僕が求めていたような師と環境を、遅ればせながら自らこの町に用意する」ということをやりたがっている、ということなのだろうと予測しています。「予測」という言葉を使うのは、僕が理屈よりも直感・予感に従って行動し、後から理由を見つけていく生き方をしているからです。もはや自分でも何がしたくて寺子屋なんかやってるのかたまに分からなくなりますが、おそらくこれは僕を動かしている大きな理由の一つなのだと思います。きっと今もこの町のどこかに、あの頃の僕のような強烈な違和感や葛藤を抱えながら生きている人間がいる筈だと。それは今学校にいる人だけでなく、かつて学校にいた人、すなわち今は大人として生きている人達も含めてです。
【「落ちこぼれ」の「2」】
このタイプは、「学校での学習に殆ど(あるいは全く)ついていけない」というタイプです。世間的には「落ちこぼれ」なんて不名誉なレッテルを張られてしまっていても、寺子屋的に視れば逆に極めて「有望」である可能性が低くありません。特に小学生でこっちの「2」に入ってる子は、寺子屋で学校と異なる基準や物差しを個別に用意してあげることで、見事に個性や才能を発揮し始めるケースが珍しくありません。
これが中高生ぐらいになるともう半分大人になり始めているので、色々分かった上で完全にやる気がないだけの子もこの「2」に含まれます。で、そういう人間に対して僕が積極的に関与するということは今では殆どありません(以前はもっとやってました)。特に日本ではここを勘違いしている人は多いですが、教育を受けるというのは義務でなく権利です。その権利をほぼ生得的に持っていながら自ら放棄することを選ぶなら、「好きにすればいい」と思います。また、そういう子をギリギリまで放っておきながら、いざ受験直前期になると途端に慌てて動き始める親御さんに関しても、「最後に慌てて動くぐらいなら最初からちゃんと責任持って動いてやれよ」と思います。とはいえ、明らかに本人の責任を問えない種類の情報不足や認識不足ということもありますので、そういうケースに関しては、本人に意欲や聴く耳があるうちは僕からも伝えることはあります。なかなか難しいですが。
一方、同じ中高生でも、そもそも持ってる思考回路や疑問のもち方が学校の枠組みに収まり切らないために結果的に「落ちこぼれ」になっている子とか、実はズバ抜けた素質を持っているのにわざと「出来ないフリ」をしている子とか(様々な事情により、そういう生徒は実在します)、その子の得意分野を評価する軸がそもそも学校に存在していないとか、そういったタイプの子に関しては寺子屋に対する適性はかなり高いです(大人でも同様)。本人に対して必要かつ適切なきっかけがあまりに不足していただけで、そのきっかけに出会えさえすれば、あるいは本人にとって適切な評価基準や道筋、目的が見つかればぐんぐん伸びていける、というケースです。あとは「実質マジで全く勉強というものをしたことがなかったけれど、一念発起して頑張ることにしたので今日からよろしくお願いします」というような、文字通り「ゼロからスタート」みたいな生徒も寺子屋で伸びる可能性アリです。学校や塾等の一般的な学習観に染まっていないお陰で、寺子屋での学びにすんなり入れるからです。
ちなみに意欲が高くても寺子屋での学びに向いてないタイプがいるとすれば、専ら成績や受験のために頑張りたいけどやり方がめちゃくちゃ下手という子で、こういう子はむしろ本人の適性にあった塾や通信教育と出会えれば伸びる可能性が高いです。なので寺子屋的には、そういう場所や方法を一緒に探してあげて、見つけて送り出してあげるまでが仕事です(もちろん、結果的に寺子屋にハマる子もいます)。
【「普通」の「6」】
まあそもそも「普通」なんて概念自体どれほど実体を伴ったものか分からないわけですが、それでもいわゆる「普通」というカテゴリーは存在するわけで、その「普通」に対して何だかんだで親和性を感じながら、自ら選んでその中を生きている人達というのが、この世の中の大半を占めています。はっきり言って、そういう人達には僕の寺子屋は全く合いません。お互いに不幸になることはあっても、幸せになることは滅多にないのが実情です。これは人生に対する向き合い方、つまり価値観の根本的な違いからくるもので、単純に相性が良くないということです。しかしながら、例外もあります。下の図を見てください(本記事の一番上に掲載している図と同じものです)。
「2-6-2」の真ん中の「6」を更に「1:4:1」で分けているのが分かると思いますが、「普通」と言われる「6」の中にも、本来ならどっちかの「2」に何らかの理由で入ってるはずなのに、そこそこ「普通にやれる力」があるせいで「6」の中に留まってるとか、ネガティブな思い込みのせいで中途半端にしか力が発揮できていなくて「6」の中に埋没してしまってるとか、そういうタイプの人がいます。このタイプの人は、「何だかんだで『普通』な自分が本当に嫌い(本当に、というのがポイント)」とか、「本当は『普通じゃない』自分を知ってるけれど、処世術として隠していて、いつしかそれが当たり前になってしまっている」といった事情を抱えていることが多いです。こういう人たちを僕は「潜在的変態」と呼んでいますが(もちろんポジティブな意味での「変態」です)、この「潜在的変態」達は、その本来持ってる自然な在り方や素質を発揮する機会を本当は強烈に求めています。足りないのは、それが良しとされる環境とか、きっかけです。あるいは、仮にそれが見つかったとして、どういう方向に自分の個性を伸ばしていけばいいかという、方向性や方法を指導してくれる存在です。僕の寺子屋では、そういうきっかけや環境や指針を用意することができます。なので、「普通」なフリをしているけれど本当は「覚醒」の機会を待っている人達には、自信を持ってこう言えます。「朗報です。皆さんのための寺子屋ができました。」と。ちなみに僕の経験的な実感でいうと、このタイプは女性の割合が比較的高いです。理由は何か分かるような分からないような。
以上、「2」「6」「2」のカテゴリー別に寺子屋通いとの相性を解説してみました。繰り返しますが、僕は決して「2-6-2の法則」を「法則」としては信じていません。あくまでひとつの「考え方の材料」なので、色々と粗はあります。そしてこれも繰り返しますが、ある生徒が「2−6−2のどこか」ということに関しては、単に学校での成績や順位だけでなく、考え方や行動なども含めた総合的な情報を加味して判断することをお勧めします。もっと言えば、本人の実感が一番です。自分が学校の中で、あるいは社会の中で「2-6-2」の両端の「2」か、あるいは「6」の中の両端の「1」のどこかにいて、本当はもっと「突き抜けたい」あるいは「しっくりくる生き方・学び方をしたい」という強い想いを抱えている人には、寺子屋はとても楽しく充実した場所になることと思います。
というわけで、寺子屋の公式サイトのリンクを最後に貼っておきますので、興味のある方はご参照ください。下の画像をクリックすればサイトが開きます。
それではまた。