ひょんなことからモルモン教の宣教師さんと親しくなる

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この地球に生きていれば、誰もが街中で上の写真のような2人組を見かけた経験が一度や二度はあるはずです。いやいや一度や二度どころじゃない、近所でしょっちゅう見かけてるよ、という方も多数おられることでしょう。彼らがモルモン教の宣教師だということはそれなりの人が知っていることと思いますが、じゃあ「モルモン教とは何ぞや」を正確に知っている人となると一気に人数は減ることでしょうし(僕も知りません)、彼らと人としてじっくり話した経験がある人となると、また更に人数が減ってくるのではないでしょうか。で、僕も前述のようにモルモン教については殆どよく知らないのですが、最近ひょんなことから上の写真の彼らと仲良くなり、色々話す機会を持ったので、ご本人達の許可を得てこの度ブログに書くという次第です。

そもそもどういうわけで彼らと話すことになったかというと、数ヶ月前に鳥取市内のインドカレー屋さんでモルモン教の宣教師ペアを見かけた翌々日に、そのペアがたまたま僕の家を訪ねてきた(伝道のために訪問した家の一軒がたまたま僕の家だった)という出来事があって、その時に「あいにくモルモン教徒になるつもりは全くないんだけど、それより君ら一昨日インドカレー屋にいたっしょ?」っていう話から始まって立ち話に花が咲き、そのまま再会を約束して友達になったためです。で、その時知り合った2人は実は上の写真の2人とは別の人達だったのですが、それから数ヶ月経った先々週の土曜日、僕が寺子屋で中学生に英語を教えていたらたまたま見覚えのある2人が前を通りかかったので「おーい!」と叫んで呼びかけたら彼らが自転車を止めて僕のところまでやってきて、よく見ると前に会ったのと違う2人(つまり写真の2人)になっていたのでびっくりするわけです。それで聞くところによると「前の2人は異動になって僕らが代わりに鳥取にやってきた」ということで、前の2人に対して再会を約束していた上に「俺のことは建前で付き合ういわゆる典型的な日本人だと思わないでくれ」とかわざわざ宣言していた僕としては、結局約束を果たさなかった自分がひたすら申し訳なくて、この新しい方の2人に「ぜひ前の2人によろしく伝えておいてくれ」と頼まないわけにはいかないわけです。ついでにこの時僕が中学生に英語を教えていたこともあって、一瞬その子の英会話の相手にもなってもらった上でお別れしたんですが、その更に翌週にあたる先週土曜日に彼らが再び寺子屋の前を通りかかり、ちょうどその時は僕の妻と息子(2ヶ月)も寺子屋にいたので、友人として彼らに家族を紹介するべく再び声をかけて色々話した、というわけです。意外と説明長くなりましたね。

ちなみに念のため補足しておくと、この一連のやり取りの間、いずれのペアも僕にも家族にも生徒にもいわゆる「一方的な宗教勧誘」に類する働きかけは一切してきていません。このあたりの良識ある紳士的な振る舞いには、正直言って僕も驚かされました。失礼ながら、もっと「ぐいぐい来る」ものだとばかり思っていたので(まあそういう人もいるにはいるでしょうが)、彼らの「人として普通に真っ当」な感じに逆に極めて好い印象を抱いたわけです(もちろん、あくまで僕が考える「真っ当」に過ぎないことは承知の上でのコメントです)。彼らも貴重な人生の時間を割いて伝道に身を捧げて生きているわけですから、時間を無駄にさせてもいけないと思い、実はどちらの2人組にも「僕は僕で信じているものが明確に在るから、おそらくモルモン教徒にはならない。」と最初に正直に伝えているんです。その上で「外国暮らしも色々大変だろうから、何か困ったことあったら言ってくれ。友情は別の話だ。」という話をしたのですが、嬉しいことにどちらのペアも「じゃあ友人としてよろしく」みたいな話になって、お互いに信じているものは違うという前提を受け入れた上で友情を結ぶことができました。以来一度も何の「勧誘」も受けていません。まあこれって別に本来当たり前のことなんですが、その当たり前が当たり前じゃないことも実際しばしばある上に(ニュースを見てもわかるように、異なる信仰の人を受け入れられない人って残念ながら存在するものです)、特に日本ではいわゆる「宗教関係の人」となると途端に拒否反応を覚える人が多いのも実情なので、野暮を承知でこの「当たり前が当たり前に成立するということ」を記しておきます。

宣教師さんというと、いきなり家にやって来て何だか怪しい世界に一方的に勧誘してくる迷惑かつ恐ろしい人々、みたいな印象をお持ちの方もいらっしゃることと思います。何せ実際ほんとにそんな感じで「宗教勧誘」してくる「熱心な人」というのも少なからず存在するわけですから。かくいう僕も「その手の人達」には強烈な違和感を覚える一人なので、そういう感じの人達が現れた時には居留守を使うことも躊躇いません(申し訳ないけど相手してる時間とエネルギーが勿体ない)。何よりまず本人が自由にも幸せにも見えない人に誘われても、不安にしかならないわけです。もっと言えば、そういう人達を相手にすると、短時間でもすごく疲れたり肩が凝ったりする、みたいなことが実際にしばしば起こります。

という前提を押さえた上で、実はもうひとつ「こちらの側」が心得ておかねばならないことというのも存在します。それは僕ら自身が「自分達と異なる世界の人々」に対して知らぬ間に持つ偏見についてです。例えば僕もメキシコ留学時、近所の心優しい普通の青年達が最初ギャングか何かに見えてめっちゃ怖かった、みたいな経験があります。あれは完全に僕が勝手に作り出した恐怖でした。治安が悪いと評判の地区のすぐ隣の地区に引っ越したばかりだった僕は、全てを過剰に過剰警戒していたのです(治安の悪い国では「過剰警戒」くらいでちょうどいいのですが、「過剰な過剰警戒」と「適度な過剰警戒」は別物です)。何が言いたいかというと、そもそもこちらが最初からそういう態度で風景や人を眺めている限り、何を見たってそういう風にしか見えないということです。

具体的に言えば、上の写真のただの爽やかな自転車マン2人に対しても、「あ、宗教の人だ」と警戒して接するだけで、下の写真みたいな感じに見えたりするということです。

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何考えてるか分からない感じで、不安を掻き立てますね。いったん「分かり合えない人」という前提で相手を眺めてみると、「いかに分かり合えなそうか」ということの「根拠」(本当は根拠でも何でもない)がそれなりに浮かんでくるから不思議です。皆さんもそういうつもりで疑ってみてください。例えば僕には「左の青年」の胸ポケットの扇子とか、「右の青年」の眼鏡とか、何だかそんなものまで「余計に怪しい」と思わせるアイテムに見えてきます。一体彼らは何を目指してあんなことして生きてるんだろう。謎。少なくとも俺らには全く関係のない別の世界の人達だ、どうぞ勝手にやってください、ただしこちらには迷惑かけないでください、みたいな。皆さんが僕と同じなら、実際にそういう目で他者を眼差した経験は少なからずあるんじゃないかと思います。例えばそういう前提で彼らと接すると、彼らがほんの一言でも自らの信仰の話を始めた瞬間に「勧誘か!結局それか!」みたいな態度をむしろこちらの方が「一方的に」とってしまう、という逆に奇妙な事態が発生しかねません。こうなると彼らが「単に自分自身のことを語っている」言葉でさえ、「意図的にこちらを巻き込もうとしている」ようにしか聞こえません。そして「奴らはすぐ勧誘してきやがる」という「事実」がその人の中で既成のものになっていきます。こうして言葉にしてみると、いったい誰が「怖い人」なのかというのは簡単に言い切れないということが実感されます。あ、また話がそれた。すんません。

写真を見て「怪しい宗教の人達」像が固まってきたでしょうか。はい、ここで写真を変えてみます。全く同じ2人で、こんな一枚も撮ってみました。

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ただの陽気な若手ビジネスマン2人組か、英会話教室の先生に見えてきます(あ、英会話教室は実際にやってるようです)。あるいは国際交流でホームステイにやってきた高校生か大学生みたいな。少なくとも「宗教っぽい香り」はしないことと思います。どう見ても(そして実際にも)ただの素朴な青年達です。「バランス感覚を持った真っ当な人間が見せる嘘のない笑顔」というのは写真越しでも分かるもので、僕の実感では、これはもう万国共通です。実際に治安の悪い国に暮らしたりして鍛えられたというのもありますが、目や顔つきや態度で、その人が信頼できる人かどうかはすぐに分かります。というかそもそもその判断を一瞬でしていかないと、国や地域によっては命取りになるわけです。

というわけで、改めて2枚の写真を見比べてみてください。「左の青年」ことトーマスが扇子を持っているのは「暑いから」ですし、「右の青年」ことフランクスが眼鏡をかけているのも「視力が悪いから」です。何を当たり前のことを、と思われるかもしれませんが、その「当たり前」をいかに我々が簡単に見失うか、ということです。サングラスかけてるから怖いとか、逆に爽やかそうだから安心だ、とか、皆さんも経験はあるはずです(「爽やか」と「爽やかそう」の差はでかい)。少なくとも僕にはそういう目で人を見た過去がありますし、今でも完全になくなったとはとても言えません。

つまり僕らは、この2枚の写真のように、そもそも自分で自分の眼差しにフィルターをかけて世界や人と向き合っているということです。それが悪いとか良いとか言いたいのでなく、そもそもそういうものなのです。僕らにできるのは「偏りなく世界や人を見る」ことではなく(そんなことは原理的に不可能です)、「自分の偏りを可能な限り自覚しながら世界や人を見る」ことです。そうしていると、やがて「こちら側」と「あちら側」の境界線など、有って無いようなものだということが分かってくるようになります。あるいは単純にそれまで互いに「未知」の側にいたものが「既知」の側になることで、互いの世界を豊かにし合える機会にも恵まれるわけです。

ところでひとつ告白すると(そんな大層なことでもないのですが)、今ここまで書いてきたのは、またもや最初に書こうとしていたのと違う内容です。「ひょんなことからモルモン教の宣教師さんと親しくなる」というタイトルになってますが、これは実は書き始めてから後で書き換えたもので、最初は「前から気になっていたことをモルモン教の宣教師さんに聞いてみる」だったんです。つまり「昔からモルモン教徒の人を見てひそかに気になっていた疑問を、思い切って本人達にぶつけてみた」という、インタビュー記事です。例えば彼らのあのお決まりのスタイル(シャツ、自転車、ヘルメット)についてとか、その驚異的な語学力の秘密とか(モルモン教徒は総じて語学力が高いイメージがあったので)、母国に帰った後どんな人生を送るのかとか、そもそも何歳なのかとか、そんなことについて色々聞いてみました。これがいざ尋ねてみると意外なことばかりでめちゃくちゃ面白かったんです。

面白かったんですが、結局いつものパターンで、いざ書こうとするとなかなか思い通りに事が運びません。必要な前置きを手抜きせず、なんて思っていると、それだけでひとつのまとまった記事になってしまいます。で、この結果です。というわけで、インタビュー記事はまた次回!せっかくなので、もう1回くらい色々聞いてみてから書くのもいいかもしれない。いずれにしても必ずお届けするのでお待ちください。

今回は「モルモン教徒」という具体例の助けを借りながら、我々が世界や人に向ける眼差しに含まれる偏見について書いてみました。ということにしておきます(完全に後付け)。インタビューはまた今度です。いずれにせよ、本ブログの企画に快く協力してくれたトーマスフランクス(そうです、彼らは「モルモン教徒」である前にトーマスでありフランクスなのです!)、ありがとう!