パラグアイから帰りたくない

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15日夜(現地時間)に到着してから早2週間が過ぎ、明日がパラグアイ滞在の最終日となりました。正直に言って、帰りたくないです。深夜の到着から一夜明けた最初の日から、既に不思議な居心地の良さをこの国の土地に感じていました。お世話になっていた環境が素晴らしかったことはもちろん大きいです。赤土の庭と道、向かいの牧草地、犬も鎖なしで勝手に散歩して帰ってくるのんびりした環境、そして生い茂る様々な木々。中でもユーカリが運ぶ香りの鎮静作用・リラックス作用は確実に効いていました。だんだんと体の状態が穏やかに変わっていくのが自分でもはっきり感じられ、気持ちも頭の動くスピードも、それにつられて穏やかになっていきました。人口の少ない鳥取で自然に囲まれて育った自分にとって、木々や動物や土に包まれた環境で過ごす日々は、懐かしさと共に色々な感覚を思い出させてくれるものでした。

鳥取に似ている。これは僕がパラグアイで過ごしながら日々感じていたことでした。一国を日本一規模の小さな鳥取県と同列にするのは妙な話に感じられるかもしれませんが、これは僕にとって非常にリアルな実感です。それどころか、僕を今回自宅に受け入れてくれた友人カルロスも、留学で鳥取(と島根)に滞在した際に全く同じことを感じたそうです。「ここはパラグアイに似ている」と。そしてそれゆえに、「次に日本に行く時も是非山陰に」と考えてくれているそうです。

聞くとパラグアイは、1800年代後半にアルゼンチン・ブラジル・ウルグアイとの戦争で土地と人口を圧倒的に失うまでは、南米の大国のひとつだったそうです(今回はあえて予備知識なしで飛び込んでみましたが、この国と深い縁のできた今後は色々そのあたりも含めて勉強しようと思います)。ここでまた鳥取の話をすると、万葉時代の鳥取も、まあ大国とまではいかないまでも、それなりの場所でした(大伴家持による万葉集最後の歌が鳥取で詠まれたものだというのは、鳥取人のちょっとした誇りです)。しかしその後の歴史においては外様であり、裏日本であり、現在も日本国内において圧倒的に影の薄い「山陰」の一角としてひっそりと存在しているのが鳥取という土地です。「かつては大国だった」パラグアイもまた、現在はブラジル・アルゼンチンという南米の2大国に挟まれて、観光においてもマチュピチュを擁するペルーやウユニ塩湖を擁するボリビアの影に隠れ、あるいは美人大国としても有名なコロンビア、ベネズエラほど巷に話題を提供することもなく(例えばコロンビアにはシャキーラがいてフアネスがいてガルシア・マルケスがいて、ベネズエラには故チャベス大統領等がいます)、正直に言ってサッカーで時々ちょっとだけ話題に上る程度の知名度です。

でも、実際には先住民言語のグアラニー語を公用語としてしっかり維持していたり、豊富な神話や言い伝えが今も若い世代に継承されていたり、マテ茶やテレレ(冷たいマテ茶)のような独特で豊かなお茶の文化も持っていたりします。自然が多く、人々は穏やかで優しく、そのせいか時間の流れもゆったりしています。もちろん政治家の腐敗や医療・教育の遅れ、社会基盤の脆弱さ等、ラテンアメリカ諸国に共通の深刻な問題は常に抱えていますし、それらは全てすぐにでも解決せなばならぬほどに深刻なものばかりです。僕自身、ラテンアメリカ諸国の露骨な愚民政策に強い嫌悪感を持っています。しかしそれらの問題点を前提にしても、パラグアイにはもっと胸を張って誇ってよいだけの文化的豊かさがあります。そのことをパラグアイ人自身にもっともっと自覚してほしいな、と感じます。常日頃から鳥取人に対して感じているように、です。鳥取も他都道府県と比べると「ない」「ない」尽くしの県ですが、誇れるだけの自然・歴史・文化の豊かさを持っています。ただ、肝心の地元の人間がそこをまだまだ圧倒的に言い切れない。もちろんその「小ささ」や「卑屈さ」そのものをネタにして楽しむようなひねりの効いたユーモアのセンスも鳥取の特徴の一つなのですが、小さいなりに圧倒的に誇れる部分はもう少しあっても良いかなというのが正直な気持ちです。

鳥取とパラグアイの比較ばかり述べてしまいましたが、僕が個人的にこの国に異様な居心地の良さを感じてしまった最大の要因がご理解いただけたでしょうか?生まれ育った環境との類似性というのは、思っていた以上に大きなものだったようです。他にも、三方を山に囲まれ残りの一方も海で塞がれた(太平洋や大西洋に面しているのと違って海の向こうにすぐ大陸があることを知っているので、「海が広がる」より「海で塞がれた」という表現が出てくるのです)鳥取の環境と、面積も小さな内陸国パラグアイという地理的な環境も、強い親近感を抱かせてくれます。この「囲まれている感」が窮屈さよりも安心感に繋がるのは、やはり僕がそのような土地で生まれ育ったことと関係しているでしょう。

首都アスンシオンについては移動もバスかタクシーで問題ないため車がなくても極端に困ることはないですし、ガタガタ揺れるオンボロバスもストレスになるどころかメキシコを思い出して懐かしくなるくらいなので、問題にはなりません(綺麗な新型バスもちょっとずつ増えています)。資本主義や市場経済の波はパラグアイにもしっかり及んでいますが、それでも大都会を抱える他の大国と比べれば、国自体に物が溢れているとは言えないので、考え方もだんだんとシンプルになっていきます。つまりそもそも物があり過ぎないことによって、「ない」ことにストレスを感じる前提が成立しないのです。

ちなみに断っておくと、僕がここに述べているのは全て「日本が地元」という前提を踏まえた上でのパラグアイ観です。例えばバスの話について言えば、日本のバスは綺麗だし時間にも遅れないし揺れもなくスムーズで、仮に「パラグアイが地元」という前提で評価すれば「どう考えても日本の方がいいだろ」という意見は当然出てくるでしょう。医療も教育も日本なりに様々な問題がありますが、それでも一定水準の基盤が社会全体で共有されていることの恩恵は圧倒的です。僕の言っていることなど、見方によっては所詮日本という先進国を故郷として背中に持っている前提での意見に過ぎません。しかしそれでも、日本には日本特有の深刻な問題があり、僕自身それに随分と苦しんできた日本人の一人です。例えばあの社会全体に漂う異常な息苦しさ、閉塞感、停滞感。もはや毎年3万人を超える自殺も、それを憂いてみせることも含めて年中行事と化したような異常な社会など、他所で出会ったことも聞いたこともありません。100万人以上が鬱になるというのも、一国の異常さのこれ以上ない証拠です。拝金主義や科学万能主義、数字絶対主義がもはや無意識レベルにまで食い込んで人々の思考を支配しているような国というのも、悲劇以外の何物でもありません。そんな日本からやって来たということも、あるいはこの国で感じる居心地の良さに影響を与えているのかもしれません。例えばこの国ではしばらく仕事がないからといって、それで「死のうかな」とはなりません。給料が周りより低いからと言って、周囲と比べた時の恥ずかしさに耐えて生きていくわけでもありません(もちろん個人レベルではそういう人も存在します。日本にもいつでも前向きで楽天的な人が多数存在するのと同じです)。

またパラグアイ人は、メキシコやブラジルといった他のラテンアメリカ人と比べると、概してシャイで慎ましく、穏やかです。そのあたりも日本人であり鳥取人である自分との相性が良い要因だと思います。初対面だと少し緊張気味で、友好的だけど同時に探り探りな感じの彼らは、いったん慣れてくると、ラティーノらしい愛情表現たっぷりの接し方で厚く温かく付き合ってくれます。特に親しくなった高校生たちの「行かないで!」「絶対戻ってきて!」というダイレクトでストレートな言葉や眼差しには、何だか命そのものを肯定されているような嬉しさを感じると共に、「もっと早く来ればよかったかな」「もう少し長くいたかったな」という気持ちにさせられます。擦れたところのない彼ら彼女らの真っ直ぐな言葉や想いを正面で受けた今回の体験は、きっとまた僕をこの地に呼び寄せてくれることでしょう。

何か色々理屈っぽいことを書きましたが、自分にとって最もリアルな言葉で短く言うと、要は「何かわからんけどこの国めっちゃ落ち着く。帰りたくない。」という一言です。もうみんな大好きだ。

ちなみに補足しておくと、メキシコやブラジルに暮らしたことがあり、「ラテンアメリカ」という環境に対するカルチャーショックを既に通り過ぎた前提でパラグアイに上陸したという文脈は、最初から落ち着いてパラグアイを観察できた要因のひとつだったと思います。仮にラテンアメリカ最初の訪問国がパラグアイだったりすると、この国に対する印象もまた全然違ったものになるかもしれません。当たり前のことですが人によって、またその人が生きてきた文脈・物語の在り方によって、どの国がその人にとってどういう印象になるのかというのは全く違ってきます。

というわけで、明日深夜の飛行機で再びブラジルに移ります。これ以上パラグアイにいるとリラックスし過ぎて色々何でもよくなって何もしなくなりそうな気もするので、この辺りで一度退却した方が良さそうです。まだここに留まるには早過ぎます。また近いうちに戻ってこられるように、今僕が果たすべき務めをしっかり果たしていこうと思います。

パラグアイを離れたら、始まったばかりの「NIHON GAKKO訪問記」シリーズや、日本からの若き移住者インタビューなどの記事を順次公開してまいります。濃密な2週間だったので、物理的にも少し距離を置いて振り返ったほうが良い記事が書けそうです。

以上、パラグアイから帰りたくない話でした。