田舎者と「いなかもの」

tokyo

「いなかもの」という言葉があります。漢字で書いたら「田舎者」です。手元の辞書でこの言葉を引くと、以下の2つの意味があります。

1、田舎の人。田舎育ちの人。

2、無作法な人、野暮な人を罵って言う語。自らをへりくだって言う語。

これはどう見ても「都会」の人間が作った言葉ですね。そもそも「田舎」というのは「町(都会)」の対立概念のようなものなので、外界を知らずに「田舎」で育った人間はそこが「田舎か都会か」なんて考えることもないし、「田舎」という言葉を必要とすることもないわけです。また「田舎」という言葉には「生まれ故郷」という意味もありますが、これも「町に出る」という段階を経て初めて生まれる考え方に他なりません。この言葉ひとつ見ても、農村が生まれ、町ができて都市が生まれ、やがて村人が仕事を求めて町に出ていくようになった人間の歴史が伝わってくる気がします。

ここで「都会人」という言葉を辞書で調べてみるとこう書いてありました。

都会に住み慣れた人。都会的に洗練されている人。

つまり改めて確認すると、この世界では「田舎=野暮」「都会=粋」という対立概念としてはっきり公式に定義されているわけですね。なるほど。鳥取という人口最少県に生まれ育ち(途中「町」に出たとはいえ)今もそこで暮らす自分にとってみれば、これは一種の挑戦と受け取っても良いでしょう。

とはいえ正直に感じていることを言うと、「都会=洗練」というのはやはり間違っていません。これはある意味当然で、「洗練」とは文字通り磨かれて「垢抜け」ていくことですから、そのためには当然たくさん研磨されるのがよいわけです。そして都会とは多くの人が集まり、日々厳しく激しい競争に晒される環境なわけですから、その分だけ削り合いや摩擦が発生し、時間もより速く進んで洗練に向かっていくわけです。一方「田舎(=いわゆる地方)」にいると、人が少ない分だけ競争も少なく(しかも最も競争的でアグレッシブな人々は大抵既にその地を離れていて)時間の流れものんびりしているので、「洗練」の必要条件である「摩擦・研磨」がなかなか発生しません。実際鳥取で暮らしていると、仕事の内容は素晴らしいのにデザインや見せ方の部分であまりに無頓着な事例をよく見かけます。まあ、そりゃそうですね。もちろん例外もあって、例えば職人気質の仕事人が時間をかけて磨き続けた技術やデザインは「町」だろうと「村」だろうと関係なく、洗練されています。それと、やはり一度「外界」を旅して戻って来た鳥取人達によるデザインは、見ていてお洒落で粋だと感じることが多いです。

と、以上は僕も認めるところなのですが、一方でいわゆる「都会」つまりその社会の「中心」を成す場所に暮らす人々を見て、逆に言いようのない「いなかもの」ぶりを感じてしまう場面も多々存在するという事実について、今回はお伝えしたいと思います。これは昔からよく言われる「東京は田舎者(地方出身者)の集まりだから」とかそういう意味ではなく、そこで暮らす人々の振る舞いや考え方を見ていて感じることです。つまり「田舎者」だけが「いなかもの」ではないのです。

ここで、僕の個人的な感覚に合わせて少し言葉の定義変更を行います。もし「いなかもの」が「野暮で無作法な人」を指すのだとしたら、それは別の言い方をすれば「視野が狭くて限定された価値観しか理解できず、多様な他者との出会いを通じたコミュニケーションの洗練プロセスを経ていない人」という理解が可能でないかと思うのですが、いかがでしょう。これは辞書の「野暮で無作法」という定義を何かの「結果」とみなし、その「原因」の方に焦点を当てた定義です。この考え方に沿えば、「田舎者(村人)」が「いなかもの(野暮)」になりやすいのは、限られた人数・価値観・情報の中で極めて限定的な思考様式しか獲得できず、その分だけコミュニケーションや発想の面で融通が効かず柔軟性に乏しい人間になってしまいやすい、という環境的な確率論である程度説明がつくはずです。例えば海外映画ひとつとってみても、東京では(最近閉館が相次いでいるとはいえ)世界各国の映画を上映するミニシアターがいわゆる地方都市に比べてたくさん存在するのに対し、地方都市ではまずハリウッドの大作しか上映されません。結果、これだけ多様な文化や人々が共に生活する丸い惑星で生活していながら、例えば「海外=アメリカ」という意味不明なくらい限定された世界観が自然と出来上がってしまったりするわけです。ただし前述したように、これは確率の問題であって、地方でも視野の広い人は実際に少なからず存在しますし、都会に行っても視野の狭い人はたくさんいます。環境的条件が整っていることは必ずしも直接「視野の広さ」には繋がらない、ということでしょう。

逆に僕が考える「非『いなかもの』度」のバロメーターは、「自分の見知っている世界が全てでないことをどれだけ理解して振舞っているか」です。

例えばUSAの人の会話の場面。「Where are you from??(お国はどちら?)」と英語で訪ねた時に、出身の州の名前を答える人が存外に多いのです。これはUSAが連邦制で各州が事実上の「国家」(state)であることとも関係していると思いますが、でもそれを言ったらブラジルだって「連邦共和国」ですし、メキシコだって「合衆国」です。でも彼らに出身を尋ねるとまず間違いなく「ブラジル」や「メキシコ」という答えが返ってきます。僕が多くのUSA出身者と話していて感じたのは、やはり自分達の国が世界の中心で、「自分達の常識が世界の常識(スタンダード)」というような感覚を多かれ少なかれ有しているのだろうということです。しかも無意識レベルで。まあ実際にそういう側面はあるので、仕方ない部分もありますが。ただ、これがいわゆる国際感覚に長けた人だと「USA」や「America」あるいは「US」といった、USA国外の人でもすぐに分かる表現で答えます。僕だって本音では出身を聞かれたら世界のどこでも迷わず「鳥取」と宣言してみたいものですが、まず間違いなく通じないので「日本」と答えています(一度だけブラジルで出会ったメキシコ人が「鳥取?ああ、梨で有名なとこだろ!」と即答してきたことがありました)。

また別の例では、日本の大手テレビ局がお茶の間に流す「バラエティ番組」で、「芸能人」と呼ばれる人達が例えば東京の鉄道の駅名や路線名を、まるで日本国民全員と地理的・経験的に共有できるかのように無邪気な顔で語ってみせる姿にも似たものを感じます。主に東京に住んでいる人が東京で作っている番組なので仕方ありませんが、仮にも全国放送という場で東京という「いち地方」のスタンダードを無前提に押し付けられているような違和感・不快感も決してゼロではありません。国家や社会の安定には一定の標準化は必要ですし、メディアがそこに果たす役割の大きさは否定しませんが、あまりにも「当たり前」のようにやられると、それは違うだろうと突っ込みたくなります。

結論から言うと、僕はこの手の「己の見知っている世界が全てのような振る舞い」を「いなかものの振る舞い」と呼んでいます。ただし漢字は「田舎者」ではなく「井中者」です。つまり「井の中の蛙」のことです。井の中の世界が全てともはや無意識に思い込んだ、かえる君(またはかえるちゃん)の態度です。またそういう人に限って訳知り顔だったりするので、何だかかえるの王様(お姫様)に見えてきます。とはいえ究極的には、僕らの誰一人として完全に「井中者」でなくなるということは不可能です。僕らはいつでも何らかの形で「井の中」の住人であることを避けられないし、またそうあることを好んでもいます。ただソクラテスの「無知の知」ではないですが、せめて「自分の今見知っている世界が全てではない」という自覚だけは持ち続けたいと個人的にはいつも願っているし、努力しているつもりです。井戸の壁にはどこかへ繋がる抜け道が隠れているかもしれないし、たとえ暗くてよく見えなくてもそこに分け入っていく勇気が必要な場面だってあるものです。あるいは周囲を見渡して自分を王様のように感じても、ふと上を見上げると天井知らずの青い空を大きな大きな鳥が飛んでいることもあるかもしれません。田舎者であることは僕のアイデンティティーですが、知らぬ間に井中者になってしまうリスクとは常に戦い続けたいと思います。というわけで、僕なりに言葉の意味をまとめ直します。

【田舎者】

田舎出身の人。田舎で暮らしている人。それだけ。

【都会人】

都会出身の人。都会で暮らしている人。それだけ。

【井中者】

自分の見知っている世界が全てのように振舞う人。あるいは自分でそれと知らず、もはや無意識にそう振舞っちゃってる人。田舎にも都会にも多数存在する。というか残念ながら我々全員が、多かれ少なかれ井中者。どんまい。頑張ろう。