「家族サービス」という不可思議な言葉に対する新概念のご提案

IMG_20160729_124243

昔からよく耳にはするものの全く共感できない言葉というのが幾つかあるのですが、「家族サービス」という言葉はその最たる例の一つです。「仕事も家族サービスも完璧にやる『できる男』」とか「週末も家族サービスで忙しい」とか、あるいは上のイラストにもある「たまにはしっかり家族サービスしておかないと」的な言い方(※イラストは鳥取弁)とか、そういう言い回しで使われることの多い言葉ですが、これにもう全く共感できない。というかほとんど意味が分からない。

言ってしまえば「家族サービス」に従事する人々にとって、家族とは「サービスを提供する相手」であり、平たく言えば「お客さん」ってことですよね。もっと言えば、この「家族サービス」の内実がほとんど「ご機嫌取り」であることは暗黙の前提です。自ら喜んで行う種類の「サービス(積極的奉仕)」というよりは、必要なこと、すなわち義務や責任の一種としてそれに勤しんでいる(勤しんできた)からこそ、前述のような言い回しが出てくるわけです。「家族と共に過ごす時間」を「サービス(=相手に満足を得てもらうための時間・価値・娯楽・労力等の提供)」という名の「ご機嫌取り」と捉える人々にとって、この世界における第一の帰属先は少なくとも家庭ではないのでしょうね。おそらく彼らは何処よりもまず「会社」や「勤め先」に属し、そこで「評価」を上げていくことこそが人生の主目的であり、アイデンティティとなっているのでしょう。もちろんその目的の根底に「家族を食べさせる」という信念を持っている方もおられることは理解していますが、仮にそうだとしても「食料確保をはじめとした家庭経営のための資金調達担当者」以外の役割が家庭において希薄な状況って、個人的には不思議でなりません。少なくとも僕には「個体として生存し、かつ子孫を残すための契約関係」以上でも以下でもない、極めてビジネスライクな関係性に見えてしまうのです(望むと望まざるとにかかわらず、結果としてそういう事態になっている、という意味で)。実際、定年退職後の離婚といった問題がそこかしこで発生しているわけで、こういうケースで離婚を突きつける妻の側の人達は、婚姻関係をビジネス的な契約に近いものとしてどこかで割り切っていたのでしょう。「私(妻)や私の子が生きていくための資金調達のために社会に労働力を提供する人」という「夫」の存在理由が失われた時点で「契約解除通知」がなされるわけですから、ある意味彼女達はビジネスセンスにおいて優れているとも言えます。その生活がどれほど幸せだったかはさておき。

「家族サービス」そのものについて掘り下げてもキリがないのでこの辺にしておきます。僕には関係ない世界の言葉です。タイトルにもある通り、今回のメインテーマは「家族サービス」という言葉自体ではなく、その逆の価値観・考え方のご提案です。

結論から言えば、僕は家族と共に過ごす時間を「家族サービス」と称したことは一度もありませんが、逆に「対価を得ることを前提に社会に対して行う価値の提供」すなわち「仕事」のことを「社会サービス」という言葉で表現しています。

これは「家族」に対立する概念として「家族以外の関係性」を「社会」と捉えた場合に、「家族」の側で過ごすことを人生上の本来的な「仕事」とみなし、逆に「社会」で行う価値提供の方を「サービス」とみなす、という真逆の発想による考え方です。

この「社会サービス」という言葉、例えばこんな使い方が可能です。

「家庭に集中するためにも、必要なだけの社会サービスはしないとね」

「人間の本分たる家庭生活と、その継続の手段たる社会サービスの両立」

「社会サービスの方もある程度しっかりしておかないと、(社会から)見向きもされなくなりますからね」

「家庭生活を充実させる秘訣は社会サービスでも手を抜かないことだ」

いかがでしょうか。僕はもう何年も、この人生観・世界観・仕事観で実際に生活してきています。過去に「本当にやってけるかしら」と不安になった瞬間が幾度もあったことは正直に認めますが、最終的に後悔したことは幸いにして一度もありません。結局のところ、幸せですから。

社会貢献も大事だなんてことは言われなくても分かっていますが、「社会の最小単位は家庭」ということも学校で習いましたし、本にもそう書いてありました。そしてこれが重要ですが、僕はその考え方に同意しています。ですので、社会貢献もまずは最小の単位からということで、僕は基本的には専ら「家庭貢献」のことばかり考えて日々生活しています。この「家庭貢献」という言葉も僕の造語ですが、これは「家族サービス」とは根本的に異なる発想と世界観に基づくものです。「家族サービス」が「家族」を行為の「対象」として己と切り離した存在としているのに対し(つまり行為主体は既に家族以外の何かになってしまっている)、「家庭貢献」の「家庭」とは「自分達家族が生きる場所」であり、己もその他の家族も同じ「家族」の側に含まれています。別の言い方をすれば、「家族サービス」というのは家族を「サービス」の提供者と受給者が互いに向き合う関係に分断してしまうものですが、「家庭貢献」の場合、その家族の構成員全員が各々に相応しい形で行為主体となって同じ方向を向いています。つまり「家庭貢献」とは、「まず家庭に属している」という強烈な自覚を土台にした人生観に基づく生き方の表現です。僕はこの考え方をベースに、あくまで「家庭貢献」を徹底的に求めて生活した結果として一般的な意味での「社会貢献」も同時に果たせるような生き方を追求しています。

まとめます。皆さんの中にも僕と同じく「家族サービス」という言葉にしっくりこない方がいらしたら、今回ご紹介した「まず『家庭貢献』があり、その実現手段のひとつとして『社会サービス(仕事)』がある」という真逆の世界観を是非取り入れてみてください。これは何よりもまず世界観の話なので、例えば現時点では家庭での時間をあまり多く取れない(つまり仕事に追われている)という方でも、態度(決心)として仕事の方を「社会サービス」と割り切って、「社会サービスにばっか時間取られて本分(家庭)のための時間がなかなか取れない」という状況解釈のもとに生きていくことができます。この「社会サービス」ならびに「家庭貢献」という概念(言葉)は、自分が本来帰属する場所を明確にする上で、なかなか有用かつ効果的です。言葉一つで思考様式や行動って変わってくるものなのです。共感する方がいらしたら、早速今から思い切って活用してみてください。また現在独身の方も、「未来の家庭貢献のための準備期間」として今を捉えれば日々の過ごし方・生き方が変わってくると思います。少なくとも僕はそういう風に独身時代を過ごしましたし、その日々は確実に現在に繋がっています。

以上、「家族サービス」に対する新概念としての「社会サービス」のご提案でした。

それではまた。