昨日、数日間の出張から鳥取に戻ると、妻と一緒に空港で出迎えてくれた1歳8ヶ月の息子が僕を見るなり笑顔になって、まっすぐ歩いて抱きつきに来てくれました。そのまま抱え上げて駐車場まで歩く間、僕の両肩をギュッと掴んで離そうとしません。戯れにちょっと地面に降ろす素振りを見せようとしてみたところ、全身で断固として拒否されました。嬉しいことです。ひとつ面白かったのが、「照れ」というのが生まれてきたのか、抱き上げてからはなかなか僕と目や顔を合わせようとしてくれませんでした。でもその間も表情はずっと笑顔だったようです。
僕は10代の頃から将来の子育て願望が強かったので、父親となった今の人生・生活は、日々「夢が叶った世界」を生きている幸福感・充実感に包まれています。また、元々人間そのものにも関心が強い方なので、息子が誕生して以降は彼の一挙手一投足を観察しているだけで飽きません。生きていれば楽しいことも気が滅入ることもありますが、今は色々あってもお陰様で毎日楽しいです。
彼を見ていると日々様々な疑問が浮かびます。例えば、まだ言語というものを持たない世界で一体どのように物事を感じたり考えたりしているのか、聞けるものなら是非詳しく聞いてみたいです(聞けませんけど)。他にも、まだ暦というものを持たない彼の時間や記憶に関する感覚にも非常に興味があります(これも同じく聞けません)。とっても気になるのに答えを知る由もない疑問が沢山あります。一応本人に尋ねてみたりしますが、基本的に何も言いません。たまに何か言ったとしても、僕に理解できる言葉で答えてくれることはありません。まあ、想像するしかありませんね。
そういう意味では、僕にそっくりな顔で、妻にそっくりな仕草や表情を見せるこの1歳児は、もちろん僕らと強く繋がった「我らが息子」という存在なのですが、同時に我々夫婦のどちらとも違う、明らかに独立した別個の、一個の生命体で、彼を見ていると、むしろその圧倒的な「他者性」の方に色々感じさせられます。実際、彼という人間については分からないことの方が遥かに多いわけです。日々彼と戯れ、共に湯船に浸かり、あるいは一緒に無邪気に踊ったりしながらも、ふと「君はどこから来たの?」と尋ねたくなる瞬間が度々訪れます。
子供に関して「授かりもの」「預かりもの」という表現がありますが、このどちらも確かにそうだ、と感じます。より僕ら夫婦にとってしっくり表現を用いるなら、「神様から授かった感」「神様から預けられてる感」とでも呼ぶべき感覚が確かに在ります。その上で、ですが、確かなリアリティを持つこの二つの感覚より、ある意味もっとリアルな感覚として、「やって来た人」という言葉がしっくりくる感じを彼から受けることがあります。「神様が選んだ然るべき時に、『親』である僕らも知らない何らかの然るべき目的を携えて、何か分からんけど圧倒的に『やって来た』人」とでも言えばいいでしょうか。日々彼が見せる態度や振る舞いは、「人間社会を生きる人間という生き物」として考えたら当然、駆け出しの未熟な存在のそれです。しかし一方で、僕ら夫婦、すなわち「両親」である「大人の人間」二人の理解や想像力では追いつかない世界と感覚を生きる存在としての、不思議でカリスマティックな何かを垣間見せる場面も日々多々現れるのです。
他ならぬ己という存在を通過してこの世にやって来た「我が子」という生き物は、どこまでも愛しくかけがえのない存在であり、同時にどこまでもな不思議で謎に満ちた存在です。本当に謎です。謎だらけです。愛すべき存在であり、守るべき存在であり、育てる責任を負った存在であり、大いに学ぶべきお手本であり、最も気のおけない親友である彼との関係を生きることを通じて、これからも多くの謎と出会っていくのだろうと思います。そしてその謎の奥の奥に、彼をこの世に送り込んだ神様の存在を垣間見るような心地を時に味わいながら、この世界で許される限りの時間を、妻と共に「彼」と大切に過ごしたいと想います。