2015年のブラジル滞在中に、サンパウロ市内のバスターミナルで目にした広告看板を撮影したのが上の写真です。ブラジルという国の人種多様性がよく現れた1枚だと思って思わず写真を撮りました。もちろん見る者がそういう印象を持つように意図された写真でしょうし、あるいは多様な人種の人々に配慮した結果の写真とも言えると思いますが、そういう前提を踏まえても、日本からの訪問者である僕にとっては印象的な広告写真でした。アジア系(あるいは日系?)の人が写真中央で存在感を放っている感じが新鮮だったというのもあるかもしれません。
昔、中学校の地理の時間に米国について学んだ時に「人種のサラダボウル」という言葉を知りました。曰く、様々な人種が並立共存して暮らしている様を表しているということで、そこには勿論ポジティブなニュアンスがありました。また特に日本のような「単一民族風」の国からすると、自国と比較した時に最も対照的な現象の一つになるわけなので、この「人種のサラダボウル」という言葉を、ある意味米国を象徴する社会的特徴の表現として認識していました。つまり、米国イコール世界最大の「人種多様性体現大国」という意識が自分の中に育ったわけです。実際、かつての僕は長い間そういう風に思っていました。
しかしながらこの考えは、ブラジルという国を経験した現在の僕の中では、あの頃と比べて大きく変化しています。今の僕にとって、世界最大の人種多様性体現大国は、紛れもなくブラジルです。
例えば人種に関する言葉がより差別用語・侮蔑表現になりやすい米国と比べて、ブラジルでは人種的特徴を表す言葉がそのまま親愛の情を伴ったニックネームになっている様子が多々見受けられます。人種というものが、例えば米国のそれから感じるほどには「敏感」で「デリケート」な問題ではない、という印象です。特に、現大統領が選挙に当選した事実・背景等を含め人種間の溝が改めて浮き彫りになっている嫌いのある近年の米国と比べても、ブラジルからはそのような空気感は伝わってきません。
端的に表すなら、ブラジルにおける人種というのは限りなくその人の「個性」、もっと言えばその人の「個性の一部」という言葉に近いもののように感じます。これが米国における人種という話となると、例えば「出自」とか「アイデンティティ」といった、もう少しシリアスなニュアンスを帯びた言葉、あるいは政治性・社会性を孕んだ言葉の方が僕の頭に浮かんできます。
「多様性(diversity)」という言葉がかつてなく飛び交う現在の日本社会・国際社会において、ブラジルというのはもっと注目されてもよい国でないかと思います。汚職・格差・犯罪率等々のネガティブなキーワードが象徴するブラジル、いわゆる経済新興国としての注目を浴びるブラジル、サッカーやサンバの文化が象徴するブラジル、それぞれが紛れもなく実在する「ブラジル」という国の姿ですが、僕が最も世の多くの人々に注目してほしいブラジルというのは、あらゆる種類の人間がその人種にかかわらず「個人」としての資格を獲得できる、人種混交社会としてのブラジル、あるいは前述の表現を繰り返すなら、人種多様性体現社会としてのブラジルです。
上の広告写真は、ブラジルにおいては決して珍しい写真ではありません。むしろ、現地ではごくありふれた普通の広告写真を、外国人の僕が興味を引かれて撮ったに過ぎない1枚です。わざわざカメラを向けるまでもない、何でもない写真なのです。
言うまでもなく、ブラジルにも人種にまつわる課題は存在します。他のあらゆる国と同様、そうした課題がゼロになるということはないでしょう。それを踏まえて繰り返しますが、特に「単一民族風」の社会で未だに人種的偏見を克服できない嫌いのある日本で育った我々にとっては、この点に関してたくさんの学べるところを持った社会、それがブラジルです。あの国で過ごしていると、人種という課題なんてとっくに過去に置いてきたかのように見える空間・環境・関係で溢れています。
多くの日本人にとって、一度は行ってみる価値のある素晴らしい国です。少しでも興味を持った方は是非、あのダイナミックで風通しの良いブラジルを体験してみてください。きっと素晴らしい体験になることと思います。